Coffee Break Essay


 『米良亀雄と神風連』



 (二)



 ここで錯綜する米良家の系譜を、一旦整理しておこう。

 九代目米良勘助(のち四助)の弟が、市右衛門(のち左七郎)である。四助の子に亀雄、四郎次がいる。その四郎次の子が私の祖母を含めたキク、周策たちである。末子の周策は、慶応二年(一八六六)生まれの四郎次が、五十九歳のときの子である。本来ならば、この間にもう一世代あってしかるべきだが、二十も歳の離れた妾の九番目の子であるがゆえ、不自然に長い年月となっている。

 また、家督相続の代数が錯綜する原因は、当時の家督相続制度と明治初年という時代の混乱に起因する。

 九代四助は、明治三年(一八七〇)に死亡している。本来なら家督を子の亀雄に相続すべきところだが、亀雄が幼かったこともあり、弟左七郎を養子に迎え家督を相続(十代)させている。当時の家督相続は、親から子へ相続させなければならなかった。

 やがて亀雄が長じたので、今度は左七郎が甥の亀雄を養子とし、家督を相続(十一代)させた。つまり亀雄の視点に立つと、父四助の家督を叔父左七郎が相続し、後に自分が受け継いだ形になる。その後、弟四郎次(十二代)へと継いでゆく。

 昭和八年(一九三三)に四郎次死亡後、その家督は四男繁実(十三代)に受け継がれた。昭和二十一年(一九四六)繁実死亡により、弟の周策が相続(十四代)し、現在に至っている。

 私は近世史家のS氏と知り合ってから、何度か家系に米良亀雄という人物がいないかと訊かれていた。周策もキクも亀雄の存在を知らなかった。二人とも八十を過ぎ、私の問い合わせまで除籍簿の存在すら忘れていた。覚えていたとしても、文字のかすれた除籍簿に目を通すことは不可能であった。除籍簿は青焼きによるもので、不鮮明な上に毛筆であったため、S氏の助言がなければ判読すら難しいものであった。

 S氏は、「米良家法名書抜」にあった大雄院守節義光居士が、米良亀雄ではないかと早い時点で推測していた。「法名書抜」には、

「大雄院守節義光居士 明治九子十月廿五日 戦死 勘助長男」

 とある。神風連の乱は、明治九年(一八七六)十月二十四日に勃発し、一日で鎮圧されている。S氏はこの大雄院の戦死の日付と、この反乱に参加していた米良亀雄が同一人物に違いないと考えていたのである。米良という特異な苗字が、それを確信に近づけていたが、その資料的な裏づけがなかったことと、九州には米良姓が多く存在していたことで、慎重になっていた。

 亀雄の存在が四郎次の除籍簿によって確認され、さらに「有禄士族基本帳」によって左七郎と亀雄、四郎次のつながりが資料の上から確認できたのである。

 資料的裏づけが明らかになった日、私はS氏から一通のメールを受け取っている。それは荒木精之(せいし)氏の『誠忠神風連』からの引用文であった。その中に「米良亀雄、神風連の乱にて自刃」という文言があった。「米良家法名書抜」に戦死とあったのは、割腹自殺ということであった。私にといって切腹とは、時代劇の中での出来事であり、自刃という言葉に強い衝撃を受けたのである。

 私の視座から家系構成を眺めれば、祖母の弟妹であるキク、周策は私の大叔母、大叔父にあたり、彼らの父四郎次は曾祖父ということになる。つまり米良亀雄は、曾祖父の兄という位置になる。私はこの亀雄が自刃に至るまでの経緯を、探ってみたいと思い始めるようになっていた。

 そんな矢先、S氏から紹介された荒木精之著『神風連実記』および、熊本のK氏が自身のブログで紹介していた渡辺京二著『神風連とその時代』に、わずかながらではあるが、神風連の乱における米良亀雄の消息があった。その記述をもとに、今年(平成十九年)八十八歳になるキクと八十四歳の周策に、二十一歳で死んだ彼らの伯父の姿を伝えようという気持ちになったのである。また同時に、父親の四郎次が、熊本から北海道に渡らなければならなかった時代背景を、詳らかにしたいと思ったのである。

 

 まず、神風連の乱とはいかなるものか。

 教科書に倣って表記すれば、明治九年十月二十四日に熊本市で勃発した新政府に対する士族の反乱、ということになる。だが、この神風連の乱は、この時期相次いで勃発した他の反乱とは性質を異にするものであった。

 決定的な相違は、

「彼らは人間の智慧才覚判断を避け、〈うけひ(宇気比)〉という神慮によって兵を挙げた。それが必敗であり、必死であり、そのために身家を破り、暴徒逆賊となることを知りながら、信仰に殉じ、主義に殉じ、国の危機に殉じたのであった」

 荒木精之氏は、自著『神風連実記』の中で述べている。「神風連はわが国史上、数の少ない一つの異彩である」と。彼らは神に祈り神を動かすことで救国を試みようとしたのである。

 うけひとは、「神と誠心を尽くして誓約する行為であり、その誓約をよしとすれば神は適切な手段を提示して、その手段にしたがう限り誓約者に奇跡的な成果を恵む」(『神風連とその時代』)ものであり、上代から秘儀として伝承さてきた神意を仰ぐ一手段であった。

「わが国は泰平がつづいて軍備はお粗末、その上兵器も向こうと比較にならない。だから戦えば負けることは必定である。しかしながら上下心を一致して百敗にも挫けず、防禦の術をつくすならば、決して国土を占領されるようなことはあるものじゃない」(『神風連実記』)

 というのが一党の理論であった。なぜ、彼らは犬死と知りつつも蜂起しなければなかったのか。そこには敬神党特有の神州古来の国風を崇める思想があった。その国風を犯す許しがたい出来のために、彼らは立ち上がったのである。

 彼らが暴挙に至る原因に踏み入る前に、明治初年の熊本における敬神党の位置づけを明らかにしておかなければならない。

 尊王倒幕のもとに生死をともにした肥後勤王党は、明治五年に進歩派と保守派に二分していた。進歩派は、王政復古の大号令を見た以上、さらに進んで新政府とともに国運の発展に寄与していこうとする一派である。それに対し、倒幕の目的は達成したが、新政府による王政が間違った方向に進んでおり、くみできない。神明の力をもって現界の挽回をはかろうというのが保守派である。前者を勤王党といい、後者を敬神党といった。

 渡辺京二氏は『神風連とその時代』なかで、敬神党の行動原理を、

「国家統治原理としての古代神道を純粋な形で復元し、その復活をもって幕末の危機を克服しようとしたところに思想の中核を見る」

 と説明している。両派の争点の相違は、攘夷か否かという一点であった。

「かの外国人はわが国の国禁を破り、大胆にもわが要塞に乗入れ、脅迫の談判をしかけてきた。先方が先に策略をもって我が方を苦しめてきた。向うが無礼の振る舞いをしたのにこっちのみ礼儀など言うべきではない。無二無三に打払ってしまうがよい」(『神風連実記』)

 というのが敬神党の攘夷論である。

 

 そもそも敬神党とは、桜園林藤次が開いた私塾原道館にその源を発する。明治三年、桜園亡き後、その意志は門下三強といわれた河上彦斎(げんさい)、太田黒伴雄、加屋霽堅(はるかた)らによって継承された。中でも太田黒伴雄は、桜園の思想信条をそのまま引き継いだ者とされている。

 明治六年、初代県令(現在の県知事)として安岡良亮が熊本に赴任してくる。彼は、反政府的な開化的尊攘派の熊本士族にほとほと手を焼いていた。彼らは厚意で用意された民政の要職をことごとく拒否し、政府の施策の一切に反発した。苦肉の策として、彼らを県下の大小の神社の神職に挙用する。さすがの彼らも、その提案を拒否する理由はなかった。明治七年夏、それぞれに所定の任用試験を受け、その任についた。

 神官登用試験の彼らの答案には一様に「いずれも皇威国権の振張を述べ、人心反正、皇道興隆せば、文永弘安の役の時のごとく、神風吹きおこり、敵を掃攘することはまちがいない」と書かれていた。試験官は驚き「彼らは真の神風連だ」といったという。敬神党一党が神風連と呼ばれる由来である。ここでいう「連」とは、連盟や連合といったいわば仲間といった意味だが、熊本藩の場合は、郷党といった意味合いが強い。

 郷党とは、士族の若衆組に起源をもつ地域集団であり、伝統的家臣団がほとんどこの郷党に属しており、一般的士族の別称であった。

 

「彼らは素行厳正、儀容また整粛、朝に斎戒して衣冠を正し神祇に奉仕し、夕べに精進して容儀を整えて祈禱をこらすのであった。その凝集する一念は君国の弥栄であり、国家の興隆であった。このため神社の尊厳にわかに高まり、敬神の風は地方につたわり、熊本の精神風土を形成する大きな影響をのこしたのであった」(『神風連実記』)

 現在では想像もおよばない敬神の風儀があった当時としても、彼らの思想行動はひときわ特異なものであった。一党の中には資産を傾け、家計を窮迫させるものもいた。彼らを敬神党と称するところである。 (つづく)

 

                     平成十九年八月 小 山 次 男