Coffee Break Essay


 『米良亀雄と神風連』

 

 (一)

 ペリー提督率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の巡洋艦が、浦賀沖に来航したのは嘉永六年(一八五三)のことである。

 四隻合計一〇〇門の大砲から撃ち出される礼砲や合図の空砲に、江戸市中は上を下への大混乱に陥った。世にいう「黒船来航」である。

 この事件から明治維新、つまり大政奉還、王政復古(一八六七・慶応三年)までの十四年間を「幕末」と呼ぶ。

 教科書では、江戸幕府瓦解の過程がいくつかのキーワードで進行してゆく。日米和親条約(一八五四・嘉永七年)、大政奉還・王政復古の大号令、版籍奉還(一八六九・明治二年)、廃藩置県(一八七一・明治四年)……。その間、吉田松陰、坂本竜馬、勝海舟、大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允(桂小五郎)などといった面々が、時代の申し子のように登場し、激動の中を駈け抜けてゆく。

 文明開化を標榜した明治新政府は、欧米視察団を派遣し、また多くの外国人を雇い入れ、ハード、ソフト両面から近代文明を取り入れようと躍起になった。時代の趨勢が怒涛のように洋化傾向に向かう一方、旧勢力となってしまった士族が猛反発を起こす。

 長州征討、戊辰戦争を経て、明治七年(一八七四)二月に佐賀の乱(佐賀)が勃発する。さらに明治九年十月二十四日の神風連の乱(熊本)が起爆剤となり、三日後の二十七日には秋月の乱(福岡)、翌二十八日には萩の乱(山口)と飛び火してゆく。そして明治十年二月十五日、最大級の西南の役(鹿児島)が勃発する。不平士族による保守反動的暴動である。

 これらの反乱は、近代武装した新政府軍により一掃され、挙国一致の中央集権国家が始動する。江戸城が無血開城されたとはいえ、時代の大きな転換には、四半世紀の歳月と幾多の流血が不可避であった。

 日本史の授業では、この幕末期の動乱に差しかかるあたりは、もう教科書の後半であり、最終受験体制に入っている時期でもある。この日本史上最も濃密な時期はあっさりと通り過ぎ、五・一五事件、二・二六事件、大陸でのいくつかの事変を経、太平洋戦争へと一気に駆け抜けてゆく。勉強の密度も粗雑で慌しかった印象が強い。

 当時の私は、この不平士族の反乱に、苛立ちにも似た思いを抱いていた。時代は変わった、今さら抵抗したって仕方ないじゃないか。ペリーじゃなくても遅かれ早かれ同じような状況が生まれていたはずである。彼らに対する微かな同情の念を抱きつつも、近づく受験に怯え、うろたえていた。彼らが新政府軍によって次々に鎮圧されてゆく状況を、胸のすく思いで俯瞰していた。早く日本が近代化しないものか、と。

 北海道生の片田舎で生まれ育った私にとって、教科書の日本史は、別次元の遠い出来事であった。日本史に北海道が登場するのは、幕末の千島樺太探検や五稜郭戦争、屯田兵制度と明治政府が招聘(しょうへい)したお雇い外国人のことで終わる。まさかこの不平士族の反乱に自分の祖先がかかわっていよとは、考えてもいなかった。

 かねてから自分の出自に興味を抱いていた私は、昨年(平成十八年)、縁あって東京の近世史家S氏と 熊本市在住の史家K氏の知遇を得、母方の系譜の作成に取りかかった。

 私の祖母(母方)の家系が、肥後熊本藩細川家にかかわりがあった。元禄十六年(一七〇三)二月、赤穂浪士事件で一党がお預けの大名屋敷で切腹する際、細川家下屋敷で堀部弥兵衛金丸の介錯を行ったのが、三代米良(めら)市右衛門(三〇〇石)である。市右衛門は、私の遠い祖先にあたる。

 私の祖母の弟、大叔父米良周策の自宅に保管されていた古文書を借り受け、その翻刻と同時に、系譜の作成をしてくれたのが赤穂義士研究家のS氏である。これによって初めて米良家に系譜がもたらされた。だがこの系譜は、米良家に保存されていた「米良家先祖附写」(細川家が家臣に提出させた由緒書)と「米良家法名書抜」(過去帳の写し)によって作成されたため、初代米良吉兵衛の寛永七年(一六三〇)の没年から、明治十年(一八七七)に戦死とある十代左七郎(一五〇石)までのものであった。

 左七郎から曾祖父父四郎次(しろうじ)(周策の父)までの系譜が途切れており、四郎次の親兄弟や子についての消息は、全くもって不明であった。現在、祖母の弟妹で存命なのは、この周策(大正十三年)と姉のキク(大正九年)の二人だけである。

 S氏の助言もあり米良家に除籍簿の存在を確認したところ、三通の除籍簿が周策家に保管されていることが判明した。キクが、かねてから気にかけていた自分の出自を調べるべく、昭和四十九年(一九七四)に除籍簿を取得し、周策に渡していたものであった。

 この除籍簿は、曾祖父四郎次を戸主とする北海道浦河町での除籍簿と、四郎次から家督を相続した四男繁実(太平洋戦争後、抑留先のシベリアで死亡)のもの、最後が六男周策の三通であった。その後、私は四郎次の妾で後に後妻となる佐山チナの除籍簿を入手する。

 これらの除籍簿により、四郎次が熊本から来たこと、四郎次には少なくとも六男八女、十四人の子がいたことが判明した。私の祖母も含め、後半の九名は妾(本妻死亡後、昭和三年に入籍)との間の子であった。周策たちが自分の兄弟姉妹を把握していなかった事情がこのへんにある。

 米良四郎次は、明治二十二年(一八八九)七月、熊本県飽田郡島崎村二二二番地から、札幌郡琴似村大字篠路村字兵村六五番地に入植している(転籍届は九月二十四日)。活路を北海道に求め、二十四歳で熊本から屯田兵としてやってきたのだ。さらに明治四十五年(一九一二)四月十七日、浦河郡浦河町大字浦河村番外地に戸籍を移している。

 この除籍簿で、本妻との間に一男二女がいたことがわかった。さらに、妾との最初の男子繁実が四男となっていることから、除籍簿には名前の見当たらない二名の男子がいたことがわかる。そこで、札幌市と熊本市に四郎次の除籍簿の請求を行ったが、除籍簿の法定保存年数である八十年の経過に伴い、いずれも処分されていた。

 だが、この調査により、四郎次以下の系譜が判明し、全国に散らばる子孫に系譜作成の旨の手紙を記し、曾祖父四郎次以下現在に至るまでの系譜が完成したのである。だが、本妻の長男は、四郎次存命中に死亡しており、残る二人の男子を捜し求め、熊本の史家K氏が持っていた北海道在住の米良姓七名にその消息を尋ねたが、回答があったものの中には該当者がいなかった。手紙の半数は、転居先不明で戻ってきた。

 米良家伝来の文書、刀剣武具等の品々が米良周策家に伝えられていたこと、四男繁実が昭和八年(一九三三)に戸主となっていることなどから、この時点で次男、三男はすでに死亡しているものと推定される。五男繁輔は昭和七年に十七歳で死亡しており、家督は昭和二十一年(一九四六)、繁実から六男の周策に継がれている。

 さらに四郎次の除籍簿によると、前戸主が米良亀雄とあり、四郎次が「亡兄米良亀雄弟」となっている。

 この米良亀雄の存在が明らかになったことで、「米良家法名書抜」にあった明治九年戦死とある大雄院守節義光居士が十一代米良亀雄と断定できた。さらにS氏の推測を裏付ける資料が、平成十九年一月に熊本の史家K氏によってもたらされた。

 資料とは、明治七年作成の旧熊本藩の「有禄士族基本帳」で、熊本県立図書館所蔵の文書である。これは「改正禄高等調 禄高帳一号六百五十五」文書で、十代米良左七郎が白川県(熊本県の前身)権令安岡良亮宛に差し出したものである。そこには左七郎が明治九年八月に隠居し、家督が亀雄に相続されたことが記されていた。さらに官吏による次のような加筆があった。

「一、(明治)九年十月二十六日(米良亀雄)自刃。弟米良四郎次、明治十年十一月十九日遺跡(ゆいせき)相続」

 この一文により、米良家十四代、四〇〇年におよぶ系譜が、完全な一本の太い線で結ばれたのである。 (つづく)

 

                     平成十九年八月  小 山 次 男