Coffee Break Essay


 『米良四郎次と屯田兵』

 

 (五)

 さらにチナの除籍謄本からは、チナの生い立ちにかかわる新たな事実が浮かび上がってくる。

 佐山チナの除籍謄本は、チナ自身が戸主である。父母欄は「亡父田中清兵衛、亡母佐山ユキ」とあり、戸主欄には「本籍に於て子出生。母佐山ユキ死亡に付、分娩を介抱したる田中清兵衛、明治三十八年三月三日出生届出、同日受付。母の家に入ることを得ざるに因り、一家創立。明治三十八年三月三日届出、同日受付。明治三十八年三月三日、幌泉郡歌別村番外地田中清兵衛の子、認知届出、同日受付。出生事項中、出生の場所、届出人の氏名並に其資格身分、登記に依り記載。認知事項中、認知届父田中清兵衛身分、登記に依り記載」(句読点は筆者による)と続く。

 チナの母佐山ユキは、明治十九年四月二十七日にチナを産んですぐに死亡し、父田中清兵衛によってチナの出生届けが行われている。ただしその届出は、チナ出生から十九年後の明治三十八年三月三日である。つまりチナは、十九歳まで戸籍がなかったことになる。さらに、除籍謄本のチナの父欄に「亡田中清兵衛」とあることから、この出生を届け出、認知した田中清兵衛は、届出時点ですでに死亡していたことになる。

 チナが第一子ハルを産むのは、この届出の二カ月後の明治三十八年五月五日である。おそらく、チナの出産が間近に迫り、チナに戸籍がないことがわかり(以前から知っていたのかも知れない)慌てて戸籍を作ったものと思われる。戸籍吏の判断で、すでに死亡している田中清兵衛が認知した形をとったものだろう。

 チナの除籍謄本には、父欄空欄のまま、ハル(明治三十八年)、ナツ(明治三十九年)、アキ(明治四十三年)、フユ(大正二年)、スエ(大正六年)、キク(大正九年)と女子の名が連なっている。筆者が平成十九年に八女キク(八十八歳)に聴き取り調査を行ったところ、昭和三年に四郎次籍へ入籍するまで、女の子供たちはみな佐山姓を名乗っており、男子である四男繁実(明治四十四年)、五男繁輔(大正四年)、六男周策(大正十三年)の三人は米良姓であったという。昭和三年に佐山家を相続する者が現れるまで、佐山家側から米良籍への入籍が許可されなかった、ということだった。

 四郎次とチナの年齢差は二十歳で、長男義陽とチナは同じ歳である。昭和三年(一九二八)五月二十一日に四郎次の戸籍に入籍したのは、妻チナ(四十三歳)、三女ハル(二十四歳)、五女アキ(十九歳)、六女フユ(十六歳)、八女キク(九歳)である。この時点で四女ナツは大正二年に濱崎清蔵家の養女となり、七女スエは大正七年に夭折している。

 

 四郎次が仕事(国有林の監視)で外出する際には、常に刀を持っており、当時、田舎で帯刀を許されていたのは、四郎次と警察官だけであったという話は、筆者がかねてから母親(五女アキの長女。昭和十年生まれ)から聞いていた話である。営林署の職員が帯刀を許されていたのは、ヒグマ対策のためだろうと思われる。だが、今回改めて四郎次の帯刀の事実をキクに尋ねたところ、刀を持って外出した父の姿は見たことがない、と明確に否定した。

 母が幼いころ、チナは米良のお婆さん≠ニ呼ばれ、しばしば泊りがけで様似町で銭湯を経営する娘アキのもとを訪れていた。筆者の母の記憶は、母親のアキ、またはチナから聞いたものかも知れない。母自身の記憶も定かではない。

 キクの記憶では、四郎次が国有林の見回りで、浦河町からえりも町目黒まで年に二度くらいの割合で、定期的に出かけていたという。目黒に定宿としている旅館があり、そこを拠点に数日間滞在していた。徒歩しか交通手段がなかった当時、浦河から目黒までの五十キロを超える道のりを、四郎次は徒歩で出かけていた。途中、様似からえりもまでは、日高山脈の山々が海に迫る険しい道で、江戸末期に開削された様似山道を抜けながら、干潮をめがけて海岸沿いを歩くという行程であった。

 また、四郎次は外出するときはいつも袴を穿いて出かけており、自宅に戻ると大きな前掛けをして過ごしていた。家にいても横になったり、胡坐をかくことはなく、いつも正座姿で背筋を伸ばしており、子供たちが少しでも足を崩すと、たちまち睨まれたものだという。

 刀の存在の有無を訊いたが、女の目につくようなところにそんなものを置くような父ではなく、一度も見たことはない。父は士族の教育を受けており、神棚や刀などに対して、女がかかわれる状況ではなかった。父は昔のことを一切語らなかったので、熊本から出てきた経緯や屯田兵生活については、何も聞いていないという。もっとも四郎次が死亡したとき、キクはまだ満十三歳であったということもあるであろう。

 

 残念ながら四郎次には浦河での除籍謄本しか残っていない。札幌市西区役所によれば、平成七年に除籍謄本が処分されているという。西区の戸籍係は、札幌全域で除籍謄本の探索を行ったが、どこにも存在しなかったと伝えてきた。また、熊本市からも同様の回答を得ている。もうすこし早くこの作業をしていれば、と悔やまれてならない。 (つづく)

 

                  平成二十年十二月  小 山 次 男