Coffee Break Essay


 『米良四郎次と屯田兵』

 

 (四)

 明治庶民の大衆的傾向として、農民生活よりは下級官吏や教師になって生計を立てるか、あるいは小規模な商工業者となって生活したいと願うのが一般的であった。そんな中、屯田兵は、開拓に従事した後、郷里へ帰りたいと願っていた傾向が強かったようである。実際には、小学校の代用教員になったり、役場の書記や監獄の看守、警察の巡査、鉄道の駅員、郵便局の事務員になった者が多かった。

 明治三十七年(一九〇四)九月八日、屯田兵制度が廃止される。四郎次が所属していた第一大隊は、その二年前の明治三十五年四月に解隊している。このとき四郎次には、十七歳の義陽を頭に五人の子供がいた。

 明治四十五年四月十七日、四十七歳になった四郎次は北海道浦河郡浦河町大字浦河番外地(のち常磐町二十二番地と改正)に本籍を移している(この時点で、次男、三男の名は浦河町の除籍謄本にはない)。営林署の職務に就き、国有林の監視員となっていた。四郎次がいつごろ屯田兵を除隊したのかは不明である。

 

 四郎次の浦河の除籍謄本には、妻ツルやその子、孫、さらに後妻とその子らが加わり、十八名が名を連ねている。子供だけで十三名である。最初の五人の子が本妻ツルの子で、あとの八人は妾佐山チナ(明治十九年生まれ)との間の子である。さらにチナの除籍謄本には、四郎次との間にもう一人、夭折した子がいる。チナの除籍謄本については後述する。

 四郎次の除籍謄本を見ていると、本妻ツルとその子らの複雑な人生模様が浮かび上がってくる。

 ツルの死は大正十四年(一九二五)二月十五日(享年六十二歳。法名は不明)で、四十歳の長男義陽が札幌で届け出ている。ツルの死亡場所の札幌区北三条西一丁目二番地(当時の住居表示)は、長女榮女(三十七歳)の後夫佐藤政之丈(大正四年に結婚)の本籍地である。このとき次女照(明治二十四年生まれ)は三十五歳であった。

 長男義陽は、母ツルが死んだ大正十四年に結婚している。義陽夫婦には子供がなく、妹榮女の三女芳(後夫との子)を養女として迎えているが、その僅か七カ月後の昭和五年に、義陽は四十五歳で死亡している。義陽の死亡届は、四郎次によって網走郡美幌町に届けられている。義陽の死にともない芳の養子縁組は解消され、四郎次の戸籍に復籍し、翌年には義陽の妻まつも青森の実家に復籍している。

 次女照も二人目の夫久保庭了造(大正六年に結婚)と昭和二年に離婚し、その後三人目の夫である栗崎近之助(昭和三年に結婚)を亡くし、昭和十一年に四郎次籍に復籍している。照は昭和二十四年、東京都北多摩郡狛江村和泉一六六七番地で死亡。五十九歳(同居の親族久保庭武男届出)。

 四郎次の浦河町の除籍謄本では、長男の次が四男繁実となっており、次男、三男の行方はわからない。おそらく浦河町に転籍した時点で、すでに死亡していたものと推定される。

 

 四郎次の十四人の子のうち、現在(平成二十一年)存命なのは八女キクと六男周策の二人だけである。だが、四郎次に関することは何も伝えられていなかった。チナは昭和三十三年まで存命であったが、チナの生い立ちや四郎次との出会いの経緯、さらにはチナが四郎次の後妻であることも正式には聞かされていなかった。それゆえ、四郎次の周辺に関しては、全て除籍謄本からの推測によるものとなる。

 四郎次は、屯田兵除隊後、営林署の職員となって浦河へ赴任する。浦河での四郎次は、国有林の監視で定期的にえりも町目黒まで出かけている。これはキクの記憶するところである。チナがどこで何をしていたかは不明だが、チナの本籍がある歌別は、様似(さまに)からえりもに続く険しい道を抜け、目黒へ向かうための日高山脈越えの入り口に位置する。

 浦河から目黒へ至るその行程に、チナとの接点があったのだろうが、様似から目黒までは、ほとんどが断崖絶壁、切り立った崖に波が打ち寄せるという道なき道である。二人が出会うとすれば、歌別と考えるのが妥当であろう。

 チナが第一子ハルを産むのは、明治三十八年五月で、チナが満十九歳になって八日目のことである。つまり、明治三十七年七月ころには、四郎次とチナに接点があったことになる。

 チナの除籍謄本には、ハルの出生地が「本村大字幌泉村番外地」とある。チナの本籍地は、父田中清兵衛と同じ「北海道幌泉郡歌別村番外地」(チナ除籍謄本)で、四郎次除籍謄本には「幌泉郡幌泉村大字歌別村番外地」と若干の違いはあるが、ハルの出生地はチナの実家の佐山家の所在と思われる。

 翌明治三十九年九月には、第二子のナツが生まれているが、このナツ以降の八子は、四郎次の本籍地である浦河郡浦河町大字浦河村番外地の出生となる。ただし、七女スエは浦河町大字浦河村五七番地(生後五カ月の大正七年に、大字浦河村五二番地で死亡)、八女キクは浦河町大字向別村番外地と微妙に異なっており、次の六男周策は四郎次の本籍地での出生となっている。

 ここから考えられることは、ハル出生の明治三十八年五月以降、チナを本宅またはその周辺に呼び寄せていたものと考えられる。それはまた、妻ツルが四郎次の許を離れた時期ともいえる。

 このころのツルおよびツルの子等の所在は判然としないが、四郎次の除籍謄本では、次女照の子英男の出生が、明治四十三年七月に浦河町西舎(にしちゃ)村杵臼村組合戸籍吏へ届けられている。また明治四十五年五月には、長女女の子美津の出生が札幌区戸籍吏への届出となっている。いずれも父欄は空欄で、四郎次の籍に入籍している。

 平成十九年に札幌の米良周策家から夥しい数の写真が発見された。いずれも明治後期から昭和初年にかけてのものである。その中に、長男義陽のものと思われる写真がある。短髪で着物姿に口ひげを生やし、メガネをかけた若者が腕を組んでいる姿が写っている。写真の裏には、

   明治三十六年十二月寫ス

      天野公人

       生年十九年■二ケ月

  呈米良義揚君

 とあり(「生年十九年」以下の文字が読み難い)、写真館の名前が「熊本市南千反畑町 物産館前 松永寫真所」と漢字とローマ字で印字されている。

 義陽は明治十九年七月生まれなので、満十七歳の写真ということになる。驚きなのは、明治三十六年に義陽が熊本にいたということである。熊本との繋がりがあったことを示唆する資料として、興味深いものである。

 明治三十六年十二月に義陽が熊本を訪れていること、また、四郎次が少なくとも明治三十七年七月ころにはチナとの接点をもっていたことなどを考えると、明治三十五年の第一大隊の解隊まで四郎次が屯田兵として篠路にいたのではないか、という思いが頭を擡(もた)げてくるが、推測の域を出るものではない。 (つづく)

 

                平成二十年十二月  小 山 次 男