Coffee Break Essay


 『米良四郎次と屯田兵』

 

 (二)

 米良四郎次が屯田兵として北海道に向かったのは、明治二十二年(一八八九)七月のことである。除籍謄本で見ると熊本県飽田郡島崎村二二二番地から、札幌郡琴似村大字篠路村字兵村六五番地へ入植している(転籍届は九月二十四日)。大日本帝国憲法が発布され、帝国議会開設を目前にした年であった。

 篠路兵村の位置は、現在の札幌市北区の屯田町がすっぽりと含まれる。旧発寒川の左岸地区、石狩町の花川の一部も兵村区域内であった。屯田小学校、北陵高校を中心に屯田中央中学校、屯田南小学校などがある。今でも○番通りや第○横線といった当時の呼称で呼ばれている通りが存在する。

 四郎次のことを直接記している書籍は今のところ発見していないが、篠路兵村への入村状況がわかる資料の中から、当時の生活状況を探ってみることにする。

 当時、屯田兵本部の召募官は予定した県に出向き、渡道する意思のある人々を郡・村役場に集め、北海道の現状を細かく説明して歩いた。だが、応募者がなかなか予定に満たなかったため、召募官は言葉巧みに新天地の魅力を説いた。

「時期になるとシャケやマスが川にあふれ、手づかみできる。原始林が北海道全域を覆っているから、好きな木を伐るだけで楽に生活できる」

「三年間は、食料から生活用品まで支給され、なにも心配はない。給与地として無償で与えられた一万五〇〇〇坪の土地が、将来は自分たちのものになる」

 困窮にあえぐ士族にとっては、夢のような話ばかりである。屯田兵本部が発送した屯田兵合格通知状を村役場に提示すれば、入植者の支度料や日当が支給される旨が記されていた。また、指定の港町での旅館の準備や出航の期日などが細かに書かれていた。

 

 兄や叔父は、時代の中で武士として死んでいった。残された家族は、逆賊の汚名を一身に受けながら、ひっそりと息をしずめて暮らさなければならなかった。すでに武士の時代は終わっていた。十三年前の夕刻、お前は武門の家に生まれた男子である。母のことは頼んだぞ、といって出て行った兄亀雄の姿が四郎次の脳裏に焼きついていた。

 困窮する生活の中で、妻が二人目の子供を宿していることを知る。四郎次が屯田兵の話を耳にしたのはそんなころである。百姓になるのではない、兵士として赴くのである。同じような境遇にあった者同士が次々と屯田兵への志願を口にするようになる。四郎次もそのひとりに加わった。このとき熊本からは四十六名が屯田兵に応募している。

 その日から、屯田兵家族は多忙な日々を過ごすことになる。徳川時代から二五〇年に及ぶ墳墓の地を後にするのである。不動産の整理、家財の始末、親類近親者への挨拶と慌しい日々のなか、四郎次は菩提寺の岳林寺へ赴いた。当主として、せめて祖先の証しだけでも持って行きたい。厳しい暑さの中、吹き出る汗を拭いながら、ひとり静かに過去帳を写しとった。二度とふたたび故郷の地を踏むことのない旅立ちを前に、静かなひとときを過ごしたのである。

 

 明治二十二年、屯田本部差し回しの御用船は、二一〇八トンの相模丸である。まず神戸港で徳島県の屯田家族を乗船させ、和歌浦港へ回航し、そこで和歌山県の屯田兵家族を乗せた。そこから瀬戸内海を航行して九州、中国地方の屯田家族をそれぞれ乗船させ、玄界灘へ向かった。玄界灘は穏やかな日であっても波が高い。初めて経験する長い船旅に嘔吐する者、頭痛に襲われる者など、船内は阿鼻叫喚を呈した。そして最終寄港地である福井県九頭竜川河口の坂井港(現在の三国港)に到着。ここで最後の兵員と家族を乗せ、相模丸は一路北海道を目指した。佐渡島を右手に眺めながら、これで故郷の山河も見納めかと思うと感慨もひとしおであった。

 一行は明治二十二年七月十四日、小樽の手宮埠頭に到着し、北海道上陸の第一歩を印した。その夜、手宮の港町にある宿舎に落ち着き、そこで兵屋の抽選が行われた。屯田兵たちは移住の書類に署名捺印したが、その抽選が後の生活を大きく左右するものになろうとは、このとき誰も考えてはいなかった。

 翌七月十五日早朝、一〇五六人の屯田家族が手宮駅前に集合した。久しぶりに旅館で一夜を明かした彼らだが、初めて経験する長い船旅の疲労は甚だしかった。期待と不安、そして目もくらむばかりの疲労が渾然一体となって、ただ呆然と立っているだけであった。

 やがて無蓋石炭車が三連結で停車した。初めて目にする陸蒸気にどよめきの声が沸き起こった。一度に乗車できる人数は三百人、指揮官の命令で分散して乗車する。片道二時間半の往復輸送が始まった。

 琴似駅に到着した彼らは、屯田兵本部の係官の歓待を受け、そこから三里の道程を歩くことになる。途中、先に入植していた新琴似兵村の人々の生活や兵屋を眺め驚嘆した。自分たちも同じような密林の生活をするのだろうかと想像したが、その実感は乏しかった。彼らは疲労の極にあり、これからの生活の一切を天命に任せ、ただ黙々と歩くだけであった。

 篠路兵村に到着した屯田家族たちは、一大湿地帯の原始林の真ん中に言葉もなく立ちすくんでいた。この篠路の低地は、原始以来いまだかつて人間が斧を入れたことのない土地であった。巨木の繁茂にまかせ、つる草や熊笹の根が伸び放題に大地を覆い、人間が入ることを強く阻んでいた。屯田兵の入植地は、一般移民が入って容易に成功しうる豊かな土壌ではなかった。相当の覚悟で来村したものの、現実は想像以上に厳しかった。

 原始林と泥炭質の湿地帯に建てられた一戸あたりの兵屋の敷地(篠路兵村の場合)は、間口が三十間(約五十五メートル)、奥行きが一六六間(約三百メートル)で、それが二二〇戸集まって兵村をつくっている。それぞれの敷地は散居制の配置(凹の型)になり、兵屋は凹の窪みの中にある。間口から敷地内に幅二間、長さ二十間の道路があり、その奥に幅十間、奥行き十一間の兵屋の敷地があったため、四囲の密林で隣家が全く見えなかった。それが屯田兵家族の孤独感をいっそう煽った。

 兵屋は新築であるが、ところどころ節が抜け落ち、外が見えていた。一般的な兵屋は木造一戸建て、ストーブのない一七・五坪である。畳敷の部屋が四畳半と八畳の二部屋、それに板の間と土間があった。いわゆる琴似型兵屋といわれるものである。

 後発の篠路兵村も概ね同型であったが、特別に篠路型兵屋と呼ばれた。他の兵村では土壁を打ち、その上に板張りがなされ一応は防寒が考えられていたが、篠路では土壁が省略され、直接四分板張りになっていた。そのため、吹雪の夜は雪が居間まで吹き込んできた。兵屋が粗悪になったのは、立地条件の悪さから建設コストがかさみ、さらに工期が遅れたことが原因であった。

 この地域は、鉄気(かなき)の強い泥炭質特有の水質であったが、水量は豊富であった。兵屋八戸毎に一カ所の掘抜井戸と浴場が設けられ、そこには渾々と清水が湧き出ていた。陸蒸気に乗ったせいで、みんなの顔は煤で真っ黒である。女や子供たちは競ってその清水に手拭を浸し、顔を拭った。

 やがて中隊本部から戸主呼集ラッパが聞こえ、屯田兵は急いで出かけ、間もなく各戸から二名集合との伝令がある。家族二人は配給の夜具と日用品を背負い、屯田兵は炊き出しを持って帰ってきた。この日から一週間の炊き出しが行われた。ようやく夕日が手稲山を赤く染め始め、開拓第一日目は静かに終わろうとしていた。 (つづく)

 

                  平成二十年十二月  小 山 次 男