Coffee Break Essay



 「米良周策と幻のレイテ沖海戦」




(二)

 午後二時十四分、七本の魚雷と数十発の命中弾を受けた瑞鶴は、エンガノ岬沖北緯一九・二〇度、東経一二五・一五度の海上にその艦首を高々と上げ沈んで行った。

 このエンガノ岬沖海戦における米軍の攻撃は四次六波にわたり、延べ総攻撃機数は、五二七機に上った。これにより第三艦隊は四隻全ての航空母艦と軽巡洋艦一隻、駆逐艦二隻を失った。戦死者は八四三名に上った。

 囮作戦は成功したものの、通信機の損傷により本隊(第二艦隊)との交信がうまく行かず、三方からレイテ湾に向かった本隊も、それぞれフィリピン島周辺のシブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、サマール沖海戦で大敗した。

 瑞鶴の沈没後、護衛についていた駆逐艦若月と初月は、兵員の救助にあたっていたが、初月は敵艦十三隻の攻撃を受け、午後八時五十九分に撃沈する。午後十一時四十五分、残る第三艦隊の艦艇は夜戦を断念し、本土へ戻るべく北上を開始する。二十六日の夕方には、軽巡洋艦五十鈴が沖縄南東部の中城湾に、二十九日深夜には、戦艦日向、伊勢、軽巡洋艦大淀、駆逐艦霜月、若月、槇が相次いで呉港(広島)に帰港した。

 

 平成十九年、筆者は周策に聴き取り調査を行っている。このエンガノ岬沖海戦での周策の記憶を呼び起こすべく、様々な角度から質問を試みた。八十四歳になる周策の六十三年前の記憶は、深い霧の中で時系列も覚束ないほどに断片化されていた。

 当時周策は、零式戦闘機の操縦と機銃の両方を行っていたが、この瑞鶴掩護の時は機銃にあたっていた。周策を乗せた戦闘機が母艦に帰艦しようとしたところ、瑞鶴の姿がどこにも見当たらない。そのうち燃料が尽き、やむなく洋上に着水した。同様に着水した機が他にもあったという。着水地点は、瑞鶴の沈没地点からさほど離れていなかった。それから一日半(三日ともいっており、この当たりの記憶は極めて曖昧である)ほど漂流した後、日本の艦船に救助されている。

 救助された周策は、パプア・ニューギニアの東端にあるブーゲンビル島、ルソン島のマニラ湾入り口にあるコレヒドール島などに短期間おり、そこから広島県の呉に戻り、終戦を迎えている。

「生きるので精一杯だった。何も覚えていない」

 というのが周策の言葉である。

 周策の記憶にある一日半の漂流というのは、着水後日没を迎えたためであろうが、この時点で第三艦隊の艦艇は救助を断念し、日本本土へ向かって北上している。おそらく周策は、沈没を免れた本隊(第二艦隊)の艦船によって救助されたのではないかと推測している。

 

 この捷一号作戦により繰り広げられた海戦、すなわちシブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、エンガノ岬沖海戦、サマール沖海戦の四海戦を総称してレイテ沖海戦という。日本海軍が総力を挙げ、米軍も太平洋に展開する全艦隊を挙げて戦ったことから、レイテ沖海戦は史上最大の海戦といわれている。

 この海戦により、日本軍は空母四隻、戦艦九隻を含む多数の艦艇を失い、海軍は組織的な攻撃能力を喪失する。これ以降、戦いの舞台は、硫黄島、沖縄へと移って行くことになる。また、この海戦では、神風特別攻撃隊による攻撃が初めて組織されている。

 

 平成二十一年三月、筆者は厚生労働省社会・援護局から周策の軍歴を入手している。軍歴の内容は次のとおりである。

 

入籍番号   横徴 水 第94323号

氏  名   米良周策   誕辰大正13.3.8

本籍地及族称 北海道浦河郡浦河町常盤町二十二番地

兵  種   水兵

入 籍 時   学力 国高了 青本五在   職業 運転手

所  管   横須賀鎮守府

服役年期   昭和十八年十二月一日 (入籍時)三ケ年



(日付)        (所轄)       (記事)

昭和十八年十二月一日             現役編入

昭和十九年九月二十五日 武山海兵団      入団海軍二等水兵ヲ命ズ

昭和十九年十月三日   横須賀海軍通信学校     兼久里浜第二警備隊附

昭和十九年十二月五日             海軍一等水兵ヲ命ズ

昭和十九年十二月五日             第73期普通科電信術練習生

昭和二十年一月四日   第二相模野海軍航空隊 第115期普通科飛行機整備術練習生

            第十六突撃隊

昭和二十年九月一日              海軍上等水兵ヲ命ズ

昭和二十年九月一日              予備役編入



 これまで周策から聞いていた海軍での体験と、軍歴の内容に大きな齟齬(そご)がある。

 軍歴によると、周策は昭和十九年十月三日に横須賀海軍通信学校に入学しているのだが、空母瑞鶴が別府湾を出撃したのが、昭和十九年十月二十日なのである。すでに戦力を失っていた海軍は、即席で操縦士を養成しており、大混乱をきたしていたことは事実である。軍歴の記載内容は、ほとんどがゴム印による押印なのだが、その押印の乱れが、当時の混乱を語っているようにも感じられた。だが、どう考えても、この日数には無理がある。

 空母瑞鶴に艦上することは、海軍を志願した当時の少年兵にとって、大きな憧れであり、夢だったに違いない。周策はその夢を私に語ったのだろう。六十余年の歳月が、夢が現(うつつ)の境界線を凌駕し、すでに境のない現実のものと変化してしまったのだろう。

 周策の記憶が定かではない以上、もはや真偽を確認する手段がない。

 

 

 

参考文献

 

「軍歴(米良周策)」(厚生労働省社会・援護局)

「米良周策除籍謄本」(北海道浦河郡浦河町)

「米良周策戸籍謄本」(北海道様似郡様似町)

 

 

 この作品は、これまでに発表した「米良亀雄と神風連」、「米良四郎次と屯田兵」、「米良繁実とシベリア抑留」、そして今回の「米良周策と幻のレイテ沖海戦」と、明治初年から現在にかけての米良家十一代から十四代にかけての事績を綴ったものである。

 

 

                 平成二十一年八月 処暑  小 山 次 男

 

 付記

 平成二十二年六月 加筆