Coffee Break Essay



 「命名」 ― 娘へ


 娘へ。君は、平成元年生まれである。私とママにとっては、それだけでも凄いことだった。なぜなら、当時、私たちの周りには、まだ平成生まれがいなかったから。だから君は新しい時代の子供として迎えられた。
 君がママのお腹に入っているころから、どういう名前がいいか随分と考え、思い悩んだ。
 現代の医学は優れたもので、妊娠して数カ月で性別がわかる。生まれてくる子が女の子だと知ったのは、君が誕生する三カ月くらい前のことだ。ママは半年以上も前から、医者から教えてもらっていたようだが。
 親は、生まれてくる子に様々な願いや意味を込め、名前をつける。一度決めた名前は、その子にとって生涯のものとなるのだから、あだや疎(おろそ)かにはつけられない。特に、初めての子には気合が入るものだ。力み過ぎる人も結構いる。
 女の子であるから、響きの優しい名前がいい。流行(はやり)の名前にするのでは芸がないと考えた。「たおやかさ」「しとやかさ」を秘めた少し古風な名前がいいと考えた。もちろん、姓名判断による画数も考慮しなければならない。これが命名に当たって、私たち夫婦の共通認識であった。この全ての要素を満たす名前を考えるのだから、大変なことだった。
 悩んだ挙句、《織衣》と命名した。
 私とママの二人が出会ったころ、つまり私たちの蜜月の情景を、君の名に溶かし込むことにした。やがては素晴らしい恋愛をし、幸せに恵まれた人生をおくれますように、という願いを込めて。
 君の名前の底流に、歌人俵万智の歌を置いた。その歌は、「君の待つ新宿までを揺られおり小田急線は我が絹の道」である。
 この歌は、歌集『サラダ記念日』(河出書房新社)の中にある。それは当時の私たちを象徴する歌、大袈裟にいうならば主題歌でもあった。
 私たちが知り合ったころ、私は東京杉並の四畳半風呂なしのボロアパートに住んでおり、ママは神奈川県綾瀬市の伯父(小田和典画伯)の家に間借りしていた。そのため私たちは、小田急線をよく利用した。京王線で下北沢に出て、そこで小田急線に乗り換えた。かなりの距離である。
 歌のなかの「我が絹の道」とは、シルクロードを指す。シルクロードの終着点は奈良であり、その道を通り有形無形の様々なものが運ばれてきた。代表格はその名の通り絹(シルク)織物である。
 「衣」と書いて《きぬ》ともいう。京都の西北に金閣や龍安寺、等持院といった寺院に囲まれる形で、こんもりとした衣笠山がある。古典では「明けゆればおのが衣衣(きぬぎぬ)なるぞ悲しき」などという表現もある。
 「衣」は通常《イ》と読むがこれは漢音読みで、呉音では《エ》となる。例えば、「衣紋(えもん)掛け」、僧侶が作業をするときに着用する「作務衣(さむえ)」、そんな言葉しか私には浮かばないのだが。
 「織」は、機織(はたおり)の織。織という字は、織姫を連想させる。織姫と彦星の七夕伝説である。七夕の夜に天の川を挟んで対峙する、織女(こと座のヴェガ)と牽牛(わし座のアルタイル)が出会うという恋物語である。この物語こそ遥か遠い昔、シルクロードを経て伝えられたものである。
 かくして、「織」を《おり》と訓読みし、「衣」を《エ》と音読みさせる重箱読みで、「織衣」と命名した。字画が多いという難点を除いては、私たちの希望を十分に満たす名前となった。
 ちなみに、五木寛之著『青春の門』に登場するヒロインと同名だが、特に意識はなかった。ほかに「織衣」という名を私は知らない。
 ただ、正直に君に告げねばならないことがある。命名したときには気づかなかったことであるので許してもらいたい。
 古典に言う「衣衣」というのは、当時の結婚形態が通い婚というもので、女性のもとに夜な夜な人目をしのんで通って来ていた男、いわゆる貴公子が、明け方になって帰ってゆく情景に使われていた言葉である。衣服を着けることが互いの別れを意味する、それが「衣衣の別れ」という言葉であった。「次に来てくれるのは、いつになるのかしら(もう少し一緒にいて欲しい)」という、女性の側からの切ない思いの表現として使われていた言葉だった。
 さらに、織姫・牽牛伝説も、年にたった一度の逢瀬の物語である。ある意味では、悲話かも知れない。だが、ほんの少し視点を逸らしてもらいたい。願いごとを短冊に書いて笹に括りつける。七夕の翌日、それを(天の川に見立てた)川に流すと願いが叶(かな)う、という方へ。何ともロマンチックな話ではないか。
 言い訳めいたが、以上が命名の経緯である。実際の君と親の願いとの間には、大きな隔たりがある。往々にしてそんなものだ。ただ、書き残しておかなければと思い立ち、記してみた。

                  平成十七年十一月小雪  小 山 次 男

 追記

 平成二十三年二月 加筆