Coffee Break Essay



この作品は、「室蘭文藝」49号(20163月発行)に掲載されております。


 名馬シンザンの孤独


 私のふるさと北海道の日高は、昆布もさることながら、サラブレッドの一大生産地である。

 中央競馬で活躍した競走馬は、第一線を退くと生まれ故郷に戻ってくる。トウショウボーイ、シンボリルドルフ、オグリキャップ、ナリタブライアン、そしてディープインパクト。豪華メンバーが顔を揃える。

 シンザンもそんな馬の一頭だった。シンザンは昭和三十九年から翌四十年にかけ、皐月賞、日本ダービー、菊花賞、天皇賞、有馬記念と走り抜け、史上初の五冠馬となった。

「もう、シンザンが走りたくないといっている」

 調教師武田文吾氏の言葉とともにふるさとに帰ってきたのは、昭和四十一年のことだった。隣町、浦河町に立派な銅像が建てられた。シンザンには特別に広い専用牧場があてがわれ、いつも見学者が絶えなかった。

 シンザンの帰郷は、それまで人気をひとり占めしていたコダマを駆逐した。

「コダマは剃刀、シンザンはナタの切れ味。ただしシンザンのナタは、髭も剃れるナタである」

 これもまた、武田文吾氏の名言である。彼はコダマの調教にも携わっていた。コダマは私の親類牧場の生産馬だった。

 私は幼いころ、よく家族でシンザンを見にいった。ポケットにニンジンを忍ばせていく。ボリボリと大きな音を立てて豪快に食べてくれるのが楽しみだった。

「これがシンザンのシンボルマークだ」

 といって父に両脇を抱えられながら、額の白星を恐る恐る撫でたのが、シンザンとの最初の出会いだった。

 シンザンは、引退後も種牡馬として数多くの名馬を世に出した。だが、シンザンは牡であるため、子供のことを知らない。その数、八〇五頭である。栄華を謳歌した藤原道長も、秦の始皇帝でさえ、この数には舌を巻くだろう。羨ましささえも浮かばないケタ違いの話である。

 その後、ある程度の年齢になると、私はひとりでシンザンに会いにいくようになっていた。

「草ばっかりで、飽きないのかよ、お前」

 ポケットからニンジンを取り出す。

「相変わらずひとりなんだな、お前は」

 雨に打たれながら、広い牧場にポツンと立っている姿は、なんとも寂しげだった。時々、遠くを見るような目をする。あの競馬場を覆った津波のような大歓声を聴いているのだろうか。大勢で草を食(は)む仲間を、恨めしそうに見やる姿を何度か見た。

 そのうちシンザンのすぐ隣に、もうひとつの専用牧場が造られた。タケホープが帰ってきたのだ。柵で隔てられてはいるが、ときおり示し合わせたように、二頭で走り出す。

 時を同じくしてタケホープのライバル、ハイセイコーが帰郷した。その後、シンボリルドルフ、オグリキャップといった面々が続いた。シンザンを見にくる人は、すっかり減ってしまった。

 シンザンと私は同年代である。私は昭和三十五年生まれで、シンザンはひとつ下だ。シンザンのデビューは京都で、私は学生時代を京都で過ごした。

 私が東京で結婚するとき、思いがけない偶然に出会う。たまたま披露宴の式場でお世話になった人の伯父が、谷川牧場の場主だった。シンザンの牧場である。

 その後、妻と二人で谷川牧場を訪ねた際、初めて牧場主と話を交わす機会があった。

「ここに来てから、二十五年以上になりますかなぁ……もう家族ですよ」

 温かい笑顔で厩舎(きゅうしゃ)を案内してくれた。

 やがて帰省のたびに、家族で訪ねるようになった。私に肩車された娘が、

「シンザーン。おおーい、シンザーン」

 と遠くで草を食むシンザンを呼ぶ。シンザンは、われ関せずと草を食んでいる。いくら呼んでも反応しないシンザンに、娘が口を尖らせる。それは私が幼いころ、父に連れられて来たときと同じ光景だった。その父もすでに世を去っている。

「いいか、馬はこうやって呼ぶんだよ」

 父がやったのと同じ方法で、

「ポーッ、ポッ、ポ、ポ、ポ。ポーッ、ポッ、ポ、ポ、ポ」

 と声を発すると、スーッと頭をもたげたシンザンが、ノッソリ、ノッソリとこちらへ歩き出した。娘が真似ると、駆け足に変わった。ヌーッと柵から出した大きな顔に、娘は恐る恐るニンジンを差し出した。

「お前も、ずいぶん、歳とったな」

 頭を撫(な)でてやると、嬉しそうに首を上下に振ってみせた。シンザンが亡くなる二年前のことである。

 この年、十九年間一緒だったタケホープが死んだ。シンザン自身も一時重体に陥ったが、何とか持ち直していた。

 生涯成績、十九戦十五勝。優勝を逃した四レースは、いずれも二着。中央競馬のレコードである。

 シンザンにはもうひとつ大記録がある。馬の年齢に四ないし五を乗じると、人間の年齢に換算できるのだが、シンザンは百六十歳前後だった。この記録も破られていない。

 出勤前の朝の慌しいひととき、目にした新聞に、

「――十三日午前二時、牧場主とその家族に見守られ、三十五歳の生涯を閉じた……」

 という文字を見つけた。私は息を呑んだ。そのまま、新聞を鞄に入れて家を出た。せめてあと一度、会いたかった。最後に、ニンジンを食わせてやりたかった。頭を撫でてやりたかった。黙って逝くなよ、お前。友達だろ。満員電車のつり革につかまって、込み上げる涙を抑ええることができなかった。平成八年七月、夏にしてはどんよりと暗い日だった。

 特別の繋留(けいりゅう)場を与えられ、手厚く護られてきたシンザン。しかし、英雄は孤独だった。あまりにも偉大すぎて三十年間を、たった一頭で過ごしとおしたシンザン。でも、「幸せだったか」と訊いたら、シンザンなら、静かにうなずくに違いない。

 シンザンは、馬としては異例の土葬で、今、牧場の片隅に眠っている。

 一方の私は、ふるさとを離れ三十年。無為に馬齢だけを重ねている。


                平成十二年九月   小 山 次 男



 追記

 平成十九年五月 加筆  平成二十六年七月 「シンザン」を改題し再加筆