Coffee Break Essay


 『万葉歌』



 寝つかれぬ深夜、歌集をパラパラとめくっていると、かつて赤ペンや鉛筆で丸印をつけた歌に目が留まった。

  相聞歌 ならべて身に沁むこの夕べ 一首残らず丸をつけおり

 歌人俵万智の歌である。

 相聞歌とは、男女の間で交わされる歌のやりとりである。万葉集に天武天皇の皇子、大津皇子(おおつのみこ)が石川郎女(いしかわのいらつめ)と交わした相聞歌がある。

  あしひきの 山のしづくに 妹待つと われ立ち濡れぬ 山のしづくに  大津皇子

 夜露に濡れながら夜通し君を待っていたよ、というものだが、日本語の保水力の豊かさは、深い連想を呼び起こす。夜露がポタリポタリと草木の葉からしたたり落ちる音、それが今か今かと待ちわびる彼の鼓動の高鳴りと重なる。「山のしづく」という言葉の反復がそのリズムを助長する。石川郎女の返歌は、

  吾を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを

 夜露に濡れて待っていて下さったあなた様、あなたを濡らした夜露になりたかった、と。この二つの歌には見事な融合が見られる。「あしひきの山のしづく」の繰り返し、「妹待つと」と「吾を待つと」、「われ立ち濡れぬ」と「きみが濡れけむ」、愛し合う男女がピッタリと和合する様が表現されている。濡れた夜露が彼女自身となり、ますます思いが募る。さらに踏み込むと、サザンオールスターズのヒット曲『匂艶(にじいろ)ザ・ナイトクラブ』の歌詞、「ナイトクラブで男も濡れるー」「ナイトクラブは女も立たすー」というエロチックなサビにつながる。

 当時の男は、こういう媚態的表現にコロリと参っていたという。それは現代でも変わらないのだが、古代の婉曲表現がいっそう秘められたものを増長し、艶めく。愛しているよ、といった薄っぺらな表現はどこにもない。

 おおらかな性表現は、古歌の随所に見られる。

  筑波嶺(つくばね)の さ百合(ゆる)の花の 夜床(ゆとこ)にも 愛(かな)しけ妹そ 晝(ひる)も愛しけ    大舎人部千文(おおとねりのちぶみ)

  子持山(こもちやま) 若かへるでの もみつまで 寝もは吾(あ)は思ふ 汝(な)は何(な)どか思ふ    東歌(あづまうた)

 柔らかな響きをもつ歌である。子持山の楓が真っ赤に色づくまで君と同衾(どうきん)していたいと思うが、君はどう思うかね。字面を直訳すると、あまりにも直接的で思わず吹き出してしまう。実際は、年老いるまで仲睦まじく暮らしたい、という意味に繋がる。さらに紅葉の鮮烈な赤という色彩が、燃えるような恋の情熱を想起させ、この歌の持つ味わいが一層深みを増す。これが千数百年の風雪に耐え、今なお、ひとびとに鮮烈な印象を与え続けるゆえんである。桑田圭祐の歌もいいが、およばない。

 いいなあと感じて、ひときわ大きな丸印をつけた歌は、柔らかな響きの歌が多い。歌をよむと、目の前に情景が現れ、音や色彩が見えてくる。

  あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る   額田王

  立ちて思ひ 居てもそ思ふ 紅の 赤裳裾引き 去にし姿を   よみ人しらず

 万葉集には、天皇から兵士、庶民に至るまで様々な階層の人々が登場する。今から千三百年前、西暦六百年から七百年代の歌が多い。六四五年に起こったクーデター、大化の改新前後のこのころは、日本史上まれにみる激動の時代だった。中国が隋から唐に変わり、その影響力が、朝鮮半島の政情の不安定をもたらし、六六三年の白村江の戦いで新羅の連合軍に日本は大敗を期す。大和朝廷は、統治下においていた朝鮮半島の任那(みまな)を手放すことになる。

 この時期、数十万人単位の流浪の民が朝鮮半島から九州を経由し、日本各地に入ったとされる。大化の改新を境に、中央集権体制の基礎が確立し、日本の政治は大きな転向を迎える。主導者であった中臣鎌足は、死後に天智天皇より藤原姓を戴き、藤原家は奈良、京都で花開く。

  あをによし 奈良の都は 咲く花の 薫(にほ)ふがごとく 今盛りなり   小野老(おののおゆ)

 平城京に移った藤原氏の栄華をたたえる歌へ。「咲く花」とは、藤の花であり藤原氏を隠喩する。万葉歌には、深い裏の意味が存在するといわれる。冒頭に挙げた大津と石川の相聞歌も朝鮮語読みすると、天皇に対する陰謀への救援を求める歌、と読めるらしい。聞きかじりの知識だが。

 当時の歌は、万葉仮名で書かれていた。まだ平仮名が存在せず、原文はさながら漢文の様相を呈している。

 仕事柄、会社でガソリンスタンドの竣工式の司会を何度か行ったことがある。神主との打ち合わせで、祝詞(のりと)をじかに目にする機会があった。祝詞は、神主が直筆で墨書するのだが、そこに書かれている文字は、祝詞万葉仮名である。神代から連綿と受け継がれた文化が、現代に生きづいているのを見た。

 社屋を移転する前まで、私の会社では、毎年、神職を迎え稲荷祭を行っていた。屋上に社があった。夕陽を受けながら祝詞を奏上する神主の姿とそのいでたちに、万葉のよすがを見る思いで、祭事をながめていた。

 眠れぬ夜、ますます目が冴えてゆく。

                     平成十三年三月  小 山 次 男

 追記

 平成十八年十月 加筆