Coffee Break Essay



 『京都の季節』




 京都が京都らしさを見せる時季がある。

 何世代にもわたって、人々が累々と積み上げてきた伝統風土が、ひときわ華やいで見える季節である。寒くもなく暑くもない若葉が萌えるころと、季節が冬へと傾斜して行く紅葉のころである。歩いていて爽やかな風を感じ、木々の葉も彩りを添える。

 一年を通して観光客が絶えないこの街に、ことさら訪問客が増えるときでもある。社寺仏閣などは、どこもかしこもひとでごった返す。せっかくのいい季節、「静」を求めて大勢が押し寄せるために、結局、「騒」になってしまう。個人の観光客はまだしも、修学旅行の黒服軍団には閉口させられる。

 また、最もひとの少ない時季は、紅葉もすっかり終わり新年の準備で気ぜわしくなる十二月の半ばから終わりにかけてと、成人式明けの一月の半ばから二月にかけてである。寒さが身に染む季節である。

 この頃は、同じ風景を見ても年を越す前と後では、随分とおもむきが違う。越す前は、寂滅してゆく季節への無常観というか、滅び行く寂しさといったものを感じるし、年が明けると、全てが改まった感じで、ことさら稟として見える。見る側の気分のせいだろうが、どちらもいい風情である。

 星霜を経た古い社寺仏閣が、きらびやかな装飾を殺ぎ落としてひっそりと建っている。灰汁(あく)がすっかり抜け、まわりの景色と同化しているその姿は、見る側の心のささくれまで、しっとりと包んでくれる。

 こういう空間にいて風景に見入る時、目には景色が映っているのだろうが、いつしか内面と向き合っている自分に気づく。ひとは、自分に対峙(たいじ)するために、こうしてやって来るのかも知れない。

 建造物も庭も、ただいたずらに歳月を経てはいない。放っておくと、やがて朽ち、崩れ落ちてしまう。幾度も修繕を繰り返し、常にひとの手が行き届いている。自然にしても、嵐山などは、全山一草木に至るまでひとの手が入っているという。そうした人の心が息づいているから、風景が芸術にまで昇華しているのかも知れない。私たちは知らぬ間に、日本人が作り上げた美意識の中に、安らぎを見出しているのである。

 かなり前に、落慶法要を済ませたばかりの奈良薬師寺の金堂を見る機会があった。燦然と輝く建物は荘厳であり、立派である。しかし、まわりの伽藍(がらん)とは明らかに不釣合いであった。生臭すぎるなと思った。建物が風景に溶けこみ馴染むには、数百年にわたる歳月による彫琢が必要なのである。

 京都は盆地であるだけに夏冬の気温の落差は激しい。このような地によく都を築いたものだと感心する。琵琶湖の湖面を渡ってきた寒風が比叡山にぶつかり、そのまま京の街に降りてくる。いわゆる比叡颪(おろし)といい、京の街に底冷えをもたらす。北国出身の者にとっては、厳しい寒さとは感じないが、日を経るにつれ、ジワジワと骨の隋に染み込む寒さである。それを暖めてくれるのが湯豆腐である。南禅寺は東山の麓、その奥に比叡が控えている。南禅寺の湯豆腐が、格別に美味いと感じる一因である。

 京都の夏は、とりわけ暑い。冬の旭川、富良野が極寒の地であるならば、京都の夏は、灼熱地獄といっても過言ではない。「京の油照り」といわれる。路上に止めてある自転車やバイクが、ぶよぶよになったアスファルトにめり込んで倒れている光景を目にする。歩いた後に自分の足形が残るのでは、と確かめるほどである。

 夏の宵、一服の涼を求めて、賀茂川べりに大勢のひとが繰り出す。四条大橋から三条大橋の間は、ひときわ賑わう。先斗町の料亭などが加茂川に向かって床(ゆか)を張り出す。夏の風物詩である。優雅な食事風景がみられるが、学生には手がとどかない。

「賀茂川は、千年の歳月と彼らの伝統の美意識をかけて磨き上げられた、という点で日本の他の川とまるで違っている」とは司馬遼太郎の言葉である。ちなみに、涼しいという字は、さんずいに京と書く。加茂川から生まれた言葉なのだろうか。

 京都に住んで、まず覚えさせられるのは、通りの名前である。碁盤の目をなす通りのひとつひとつに名前がある。それを覚えぬことには、自分がどこにいるのか、さっぱりわからない。名前は、数え歌になっていて、京都の子供なら誰でも知っている。

 ちなみに御所から東西に走る通りの名は、

《まる・たけ・えべす・に・おし・おいけ、あね・さん・ろっかく・たこ・にしき、し・あや・ぶっ・たか・まつ・まん・ごーじょう》手鞠歌のような独特の抑揚で歌う。

 丸太町通り、竹屋通り、恵比寿通り、二条通り、押小路通り、御池通り、姉小路通り、三条通り、六角通り、蛸薬師通り、錦小路通り……というぐあいに、各通りの頭を歌っている。都市整備を京都に倣った札幌は、合理的に番号が付されている。便利ではあるが、風情が微塵もない。

 これらの通りをブラリと歩いてみるのもいいものである。素顔の京に出会える。そこに暮らす人々の息遣いに否応なく遭遇する。

「えらい、暑ぅおますなぁー」

「ほんまに……。明日、清水さん(清水寺)で講和あるそやけど、いかはります?」

 何気ない人々の会話や家屋の佇まいに、濃厚な京都を感じる。

 ただ、二泊や三泊の観光で京都に行って、これを実行するには勇気がいる。地方から東京観光に来て、浅草や皇居などの名所を見ないで、根津や中谷、月島あたりをぶらりと散歩して帰るようなものだ。考えようによっては、これほど贅沢な旅行はない。

 表向きの顔ではなく、素顔の京都に出くわすことは間違いない。ただ、せっかく京都へ行くのだから、古い寺の濡縁にでも座って、ボーッと苔むした庭を眺めながら、静謐(せいひつ)なひと時を過ごしたいと思う気持ちは、捨てがたい。

 私でさえ、たまに京都へ行くと、駆け足で名所巡りをしている自分に気づく。

 サンダル履きの普段着で、ぶらりと散歩するような、贅沢な旅をしてみたいものだ。

                      平成十四年十月  小 山 次 男

 追記

 平成十九年六月 加筆