Coffee Break Essay





 「京都で教わった歌」


 

 北海道の田舎者が、学生時代の四年間を京都で過ごした。場所は伏見区の深草で、昭和五十四年の入学だから、もう三十六年前のことになる。

 そのむかし、京都市内とその郊外を洛中(らくちゅう)・洛外と呼んでいた時代がある。深草はその名の示すとおり草深い場末だった。

  夕されば野辺の秋風身にしみて 鶉(うずら)鳴くなり深草の里

 藤原俊成の感傷的な情緒あふれる歌である。うらぶれた洛外の風情とは、こんなものだったのだろう。

 江戸期にこの歌をパロディー化したのが、狂歌師、四方赤良(よもの・あから)である。

  ひとつとりふたつとりては焼いて食う 鶉なくなる深草の里

 言葉遊びの妙味だろうが、これだけ完膚(かんぷ)なきまでに「雅」の世界を「俗」に引きずり降ろされたら、さすがの俊成もあきれて苦笑いするだろう。いずれも受験時代に覚えた歌である。

 京都での生活を始めて真っ先に教わったのが「京都の通りのわらべ歌」である。京都の街はご存じのとおり、碁盤の目になっている。その京都に倣った札幌は、通りに番号を付し、北十五条西二十八丁目、南三条東六丁目といった住居表示になっている。道に迷うことはないが、まったく合理的過ぎて、味もそっけもない。

 これに対し、京都の通りは、その筋ごとに名前がついている。つまり、通りの名前を覚えないことには、街を歩いていて自分の座標位置がわからなくなる。四条(しじょう)大宮、烏丸(からすま)御池などと言われても、さっぱり見当もつかない。今はスマホがあるから、道に迷うことはないだろうが。

「あんたぁ、まず通りの歌、覚えなあかんわ。うちが教えたるし」

 大学のESSに所属し、二つ上の女の先輩から手ほどきを受けた。

「まる・たけ・えべす・に・おし・おいけ・あね・さん・ろっかく・たこ・にしき……」

 独特の抑揚のわらべ歌である。御所を起点に東西に延びる通りを北から歌う『丸竹夷(まるたけえべす)』という歌である。これを通り名に直すと、

丸太町通、竹屋町通、夷川通、二条通、押小路通、御池通、姉小路通、三条通、六角通、蛸薬師通、錦小路通……」となる。この歌では、京都駅を越えて九条通りまでの二十六本の通り名が歌で覚えられる(十条までの歌もある)。ちなみに南北の通りを、東から歌うのは『寺御幸(てらごこ)』という。なぜか先輩は、『丸竹夷』の五条通りまでしか教えてくれなかった。要は、市内中心部の横軸の通り名さえ把握していれば、何とかなるということなのだろう。

 今でもときおり、思い出したようにこの歌が口をついて出ることがある。当時の愛子先輩のはんなり言葉が蘇ってきて、胸がキューンとなる。

 むかし、北海道人の大方は、巨人ファンだった。日本ハムファイターズが、札幌を本拠地にするのは、平成十五年からである。だが、巨人ファンであることは、関西では許されない。しかも私の言葉が関西弁ではない。中東の危険地帯を、日の丸の旗を持って歩くようなものである。

 アパートの隣室の高谷は姫路出身で、妄信的な阪神ファンだった。同じ大学で、しかも学部も一緒だった。

「高谷、今夜は、巨人・阪神戦やな」

 と持ちかけると、

「アホ! 阪神・巨人や。なんぼ言うたらわかんねん! 巨人・阪神言うやらあかん! ぶっ殺されても知らんど」

 阪神・巨人戦のある日は、一大事である。高谷はテレビの前でメガホンを叩く。勝敗の行方は、高谷を見ればすぐに知れた。負けた日の高谷は、気の毒で見ていられなかった。そんな彼の仕事は、まず私を阪神ファンに洗脳することだった。

「アホか、お前は。巨人はアカン! 江川のどこがええ言うねん。ドタマかち割って、ストローで脳ミソ吸ったろか! ボケ!」

 播州赤穂訛りは、お世辞にもきれいとは言えない。毎晩のように、阪神タイガースの球団歌、『六甲おろし』を歌わされた。私の身を守るため、最低限知っておかなければならない歌だという。というか、阪神が勝った日は、高谷がアパートの窓を開けて、『六甲おろし』を歌うのだ。すると、暗闇のなか、あちらこちらからから、『六甲おろし』が聞こえて来る。そんなこともあって、嫌でも覚えてしまった。だが、タイガースはなかなか勝たないので、めったに歌は聞こえてこなかった。それにしても関西とは恐ろしい場所だと思った。

 その同じアパートに学生の坊さんがいた。彼は坊さんの専門学校を出てから、大学に入り直していた。仏教系の学科の専攻である。卒業するとき、彼が二十七歳だったので、二十一、二の我々からすると、かなりの年上に見えた。

 この坊さん、半端ではない大酒飲みだった。檀家の法事があると、アルバイトだと言って坊主頭の野球部員に袈裟を着せ、車で出かける。檀家もニセ坊主にいくばくかのお布施を包まざるを得ない。そのお布施で買い出しに出かけ、宴会が始まる。

「ありがたく、いただかなあかん」手を合わせて、乾杯となる。

 休日には、よく京都郊外のお寺を車で案内してくれた。お寺に着くと自ら袈裟を着て、非公開の部屋を見せてくれる。

「はよ、撮らんかい。減るもんやないさかいな。よう目ぇにも焼き付けときぃ」

 と言って写真を撮らせてくれるのだ。私は彼から、酒の飲み方や目上の者に対する酒席での振る舞い方などを、徹底的に仕込まれた。それは就職してから、大いに役立った。

 その彼が卒業間際、

「この歌、覚えときぃ。就職したら役に立つで」

 と言って渡されたのが、上方落語家の桂春団治の曲が入ったカセットテープだった。この坊さんの叔父が、高級スナックのカラオケでの歌を吹き込んだものである。彼の叔父は、暴力団の幹部だった。

 桂春団治の歌といっても、「芸のためなら 女房も泣かす」の『浪花恋しぐれ』ではない。「酒も呑めなきゃ女も抱けぬ そんなど阿呆は死になされ……」で始まる『浪花しぐれ「桂 春団治」』の方である。聞いたことのない曲だが、この叔父の歌が抜群にうまく、セリフが破天荒に面白かった。

「わいは女が好きや ほんまに好きやー/世間の奴らわいのことを 女たらしとか 後家殺しとか云うけど 阿保ぬかせ/女もこしらえんと 金(ゼニ)ばっかりためる奴は 一人前の芸人とは 云わんわい/うまいのん喰うて 飲みたいもん飲んで 女が惚れて来たら こっちも惚れたる これがほんまの芸人や/何やて……」とさらに続く。

 私はカセットテープが擦り切れるほどこの曲を聴いて、歌詞とセリフを完全にマスターした。

 元来私はカラオケが苦手である。会社のつき合いでやむなく行く程度で、歌える曲も少ない。何が嫌かといって、酔っぱらったオヤジの演歌を聞かされるのが、たまらなく苦痛だった。そのうちオマエも歌えとなって、何曲か歌うことになる。もうそろそろお開きにしたいという最後の最後で、この春団治を歌う。締めにもってこいの歌だった。

 私が歌い出し、セリフの部分に差しかかると、それまで喧騒に包まれていた店内がにわかに静まり返る。スナックのお客もホステスも、例外なくカラオケのスクリーンに釘づけになる。私と、セリフを交互に見比べるのだ。私はスクリーンを見ないで、身振り手振りを付けて、濃厚な関西弁でまくし立てる。彼らの眼には驚きの色がありありと窺える。

 これを私が歌うと、もう上司は歌う気が失せるらしく、お開きとなるのが常だった。この歌のおかげで、終電を逃さなくて済んだことが何度あったか。これが関西圏だったら、こんなに受けることはなかっただろう。

 大学を卒業し、東京に就職した年に父が病死した。その年の正月を関西で過ごした。喪中の正月を北海道で過ごすのが嫌で、母と妹を呼び出し、正月のツアーに参加したのだ。三十名ほどの観光ツアーだった。

 その旅行で、高野山の宿坊に一泊した。夕食時に酒が出た。給仕は若い学僧だった。私は調子に乗って、飲み過ぎた。そしてアカペラでこの歌を歌ってしまった。「酒も呑めなきゃ女も抱けぬ……」「わいは女が好きや……」と調子に乗る二十三歳の息子をまじましと見つめていた母が、

「あんた、そんな歌どこで覚えてきたの」

 とうっすらと涙を浮かべて訊いてきた。四年間も仕送りをした大学で、何を勉強してきたのか、という思いを言外に感じた。あのときは失敗したと思った。

「どいつもこいつも わいの心のわかる奴は 一人も居らへん/女房まであいそつかして出て行きくさった……」

 今や春団治と私は一心同体である。

                 平成二十七年三月 小 山 次 男