Coffee Break Essay
『臭い話』 「オメェ! これじゃ味噌もクソも一緒じゃねえか」 入社したてのころよく言われたものだ。両者とも確かに似ている。 だがミソとクソは、色や形状、粘度は同じでも、においが決定的に違う。 味は、ミソの方がはるかに塩辛い。ひと文字違いで大違いの物質である。 だが、口から入ったミソも翌日にはクソに変化する。 (こういった話で終始するので、読者諸氏はここで断念しても一向に差し支えない) 似た言葉に「うこん」がある。 薬局などで近年よく目にするが、片仮名で「ウコン」と書いてある場合もある。 肝機能障害や高血圧などに効くというあの黄色い粉末。 慣れないうちは、どうしても「うんこ」と読んでしまう。 慎重に一字ずつ区切って読んで、やっとその違に気づきホッとする。色もいけない。 小さい子供などがそばにいると、親の目を盗んで「あれはね、ウンコの粉なンだよ」って教えたい衝動に駆られてしまうのは、私だけだろうか。 「糞」とはよく書いたもので、日本ならではの文字である。米が異なるのだから。 また、「屎」とも書く。ひとの身体から出る米という意味だが、部首でいう「尸」は、しかばねであるので死んだ米とも解せる。 ということは、欧米人の糞、というのは誤った表現なのだろうか。 「尸」に「麦」とでも書くか。 中学の頃は、片思いのA子さんは、汚いクソなどするわけがないと真面目に考えていた。 今では、キレイなおねえさんが爽やかな笑顔で、便秘薬のCMをやる時代である。 先日、マツモトキヨシで『便ドッサリ』という名の薬を見つけ、あまりの直接的表現に感動した。 はたしてレジの若いお兄さんに向かって、「『便ドッサリ』下さい」という勇気のあるひとはいるだろうか。 つまり、クソ詰まりで悩んでいるひとが、それほど多いのだ。 澄ました顔で街を歩いているキレイなおねえさんのお腹には、強烈に臭い大量のクソが詰まっている可能性をにおわせている。 今やそれが一般常識なのである。 現在、思春期にある少年は、その現実をどう受け止めているのだろうか。 そういうクソを年がら年中調べているひとがいる。 臨床検査士というのか、理学検査を職業にしているひとは、エライと思う。 みんなが大嫌いな血とか小便やクソを、来る日も来る日もながめているのだ。 最初からそういう職業に就きたかったのではないだろうに。 二日酔いの日などは、さぞ大変だろう。今は、マッチ箱じゃない分、楽だろうが。 日本語は、いいにおいの時は「匂い」と表現するが、くさい場合は「臭い」と書く。 つまり、「臭い」と書いて「くさい」とも読むし、「におい」(悪臭)とも読む。 「あー、いいにおい。おかあさん今日の晩ご飯、なあーに」というときが、匂いで、「クッセー、誰の足だよ」が「臭い」である。 焼き鳥を焼く匂い、サンマを焼く匂い、スルメを焼く匂いどれも食欲をそそる。 空腹のときは、たまったものじゃない。 嫌いな食べ物がないと誇る私も、さすがに初めてクサヤを食べたときはエイ! と力むほどの気合いと、もうどうにでもなれ、というようなヤケクソの気持ちが必要であった。 どう考えてもあのニオイは、「匂い」ではない。 とてもじゃないが人間の食べ物のニオイではない。恐ろしい悪臭である。 誰がどういいように解釈しても、ウンコの臭いだ。 だが、これが、美味い。 初めてこれを食ったヤツは、死ぬほど腹が減っていたに違いない。 これを食べなきゃ餓死する、というところまで追い詰められていたはずだ。 そうでもなければ、とても口にできる代物ではない。 だからクサヤに多少クソが塗り付けられていても全く気付かない、恐るべき食べ物なのだ。 味噌漬けのクサヤがないだけ、幸ウンと思わねば。 なんだか文章まで臭ってきた。 本当は、行間から仄(ほの)かに匂う文章を書きたいのである。 でも得意なのは、臭い方かも知れない。 平成十五年十二月 小 山 次 男 |