Coffee Break Essay


 「小山次男という偽名」


 会社のホームページの片隅にエッセイを書いて十一年になる。間もなく作品数は二百本を越える。

 この間、多くの人から次のような質問を受けてきた。

「どうしてペンネーム、コヤマ・ツグオにしたんですか」と。

「いや、ツグオじゃなくてツギオです。それと……これ、偽名なんです」

 何度、このフレーズを繰り返してきたことか。ほとんどの人が「次男」を「ツグオ」と読む。私の本名は「近藤健」なのだが、「健」を「ケン」ではなく「タケシ」と呼ぶ人が多い。それが社会一般の読み方なのだろう。ただ、私の場合はいいが、「高倉健」が「タカクラ・タケシ」だといささか問題がある。眩しそうに目を細めながら網走刑務所を出てくるのは、「高倉健」でなければならない。「タカクラ・タケシ」では画にならないのだ。そんなことはどうだっていいが、私にとって、「小山」に限っては「ツグオ」ではなく、「ツギオ」でなければならない訳がある。

 高校時代、出席番号順では私の前には、いつも小山クンがいた。「今」や「後藤」が来てもいいようなものだが、三年間ずっと小山クンだった。あいうえお順だと「こんどう」の周辺は、「ごとう」、「こやま」、「こん」、「こんどう」、「さいとう」、「ささき」、「さとう」という流れになる。このラインの中で小山クンが常に前にいた。つまり、小山クンの次の男が近藤であり、小山の次の男だから「ツグオ」ではなく、「ツギオ」という訳だ。一生懸命説明した割には、たいしたことではない。

 さらに「小山次男」は、ペンネームではない。ホームページにエッセイを掲載するに当たり、考えた末に決めた偽名である。自分を隠せる名前、できるだけ目立たない、印象の薄い名前にしたかった。私にとって「小山次男」はカムフラージュにもってこいの名だった。

 福田定一が司馬遼太郎と称し、斎藤宗吉が北杜夫と名乗ったように、私も格好いいペンネームを持ちたかった。どうして小山次男にしたんですかという質問の底流にも、

(もっとシャレた名前があったでしょう、どうしてまた……)

 といった含みが感じられる。実は、それでいいのであって、大成功なのだ。全国の「小山次男さん」、本当にゴメンなさい。ご海容を。

 私が偽名を使う目的は、妻の目をくらますという、ただ一点に尽きていた。だから本名はもってのほか。できるだけ目立たない、ごく普通の名前にしたかった。そんな中で「小山次男」を発見したのである。妻の目をごまかして、自由にものが書きたかった。

 妻は、平成九年に精神疾患を発病していた。境界例の人格障害である。パーソナリティー障害ともいわれる。加えて強いうつ症状といくつかの妄想を伴っていた。手ごわかったのは嫉妬妄想だった。妻はある時期から、私が浮気していると信じて疑わなかった。私から浮気の自白を引き出すべく、連日連夜の詰問と暴力をふるわれていた時期があった。

 包丁の刃先が目の前五センチのところで勢いよく止められる。全身の筋肉が石のように硬直する。恐怖のあまり嘔吐を覚える。胃が痙攣するのだ。全力疾走直後のように肩で息をしなければ、呼吸が苦しい。狂気を帯びた者の手に刃物が握られたとき、その怖さは計り知れないほど増幅される。

 娘が幼かったので、家庭を守りたい、ただその一心で、逃げ出すことができなかった。怖くて逃げられなかった、といった方が正直なところかも知れない。十二年半の闘病生活の中で、妻は十二回の入退院を繰り返した。それはそのまま、妻の自殺未遂の数を現わしていた。

 私がものを書き始めたのは、妻が発病してからである。このままでは共倒れになる。こちらの精神が先にダメになると思ったのだ。私は「小山次男」を頭からすっぽりと被り、一心不乱にエッセイを綴ってきた。殴られ蹴られしている只中で、作品の構想を考えていた。それが自分を守る唯一の手段だった。私にとって書くことは抑止力ではなく、亀のように身を縮める完全なる専守防衛であった。

 平成二十二年三月、妻が家を出た。同じ病気を患う男のもとへ走ったのだ。妻の方から離婚届を差し出され、私は黙って印を押した。

 私は唐突に解き放たれた。突然目の前に現れた自由に、戸惑いを覚えた。周りがあまりにもまばゆ過ぎ、サングラスをかけたモグラが渋谷の雑踏の中に放り出され、おろおろしているような状況がしばらく続いた。

 もはや隠れ蓑は不要になった。だが、いまだに周囲がまぶしく見える。そこで何かいいペンネームはないものかと思案している。ケン・コンドウから「けんこん堂」にしようか。これだと明らかに「ジュンク堂」のパクリだ。さらに入れ替え「こんけん堂」ならどうだ、いろいろ考えている。ただ、ずっと「小山次男」で書いてきて、突然、ペンネームに変えてしまったら、読者が「こんどう」してしまうだろう。寒いダジャレにひとり空笑しながら、あれこれと思いを巡らせている。とりあえず、ホームページは小山次男のままにしておこうと思っている。

 実は私、小山という偽名を以前にも使ったことがある。学生時代、魔が差して新宿歌舞伎町のピンクサロンに入ったことがあった。呼び込みの甘い言葉に騙(だま)されたのだ。望外な金額を吹きかけられた。名前を訊かれて、思わず「小山健一」と口にした。どうして「小山」にしたのかはわからない。とっさに口をついて出たのだ。

 高校時代、「小山の次が、オレの番だ」という思いが常にあった。たとえば国語や英語の教科書を読む順番がそうだった。いつも小山クンの大きな背中を見ていた。小山クンが盾になってくれていた。そんな思いが、小山という名前を口にした理由だろう。あの小山クンは今、どうしているだろうか。そんなに親しくはなかったが、懐かしさがこみ上げてくる。

 まだしばらくは小山の次でいたいと思っている。その方が、居心地がいい。

               平成二十四年三月 啓蟄  小 山 次 男