Coffee Break Essay



 『言葉さがし』




 こんなに書き込みがあっちゃ、古書じゃなくて古紙ですよ、と古本屋の親爺に睨まれたことがある。

 本を読むときは、いつも色鉛筆を手にしている。気に入った箇所があれば、ザアーッと線を引く。だから面白かった本は、中身がひどい状態になっている。後でその気に入った部分をノートに書き写すのだ。時間のかかる根気のいる作業である。この文章を何かに引用するのかといわれても、あまりにも書き写した量が多すぎて、ほとんど眠ってしまっている。

 このノート、「耳袋」という名前をつけている。足袋と書いて「タビ」なら、耳袋と書いたら「ミミタブ」だろう、と造語したもの。耳から入った知識は、耳タブに蓄積すると考えているからだ(読書は目から入るのだが、こまかいことは、ご容赦を)。

 このノートには、難解な漢字、興味を持った言葉、粋な文章等が書き留められている。

《小学校の授業の折り、先生が「本は一冊二冊と数え、猫は一匹二匹と数えますね。ではお豆腐は何と数えますか?」と尋ねたら、元気のいい子供が手を挙げて、「はい、ワンパック、ツーパックです」と答えたという。食パンでも「一斤」という数え方は近頃とんと耳にしなくなった……》

 思わず頬がゆるむ、こういう文章が好きなのだ。

 ストレートに楽しめるものもある。

《いっぱしの男というのならいざしらず、いっぱしの女というのは、どこかすわりが悪い。選挙で「○○を男にして下さい」という表現はあり得ても、「○○を女にして下さい」となるとちょっと意味がズレてしまう。ミスマッチのおかしみともいおうか》

《エルビス・プレスリーの「ラヴ・ミー・テンダー」(Love Me Tender)を日本人が歌うとLがRになり、英国人やアメリカ人には「Rub Me Tender」と聞こえ笑いをそそるのだ。何故かといえば、彼らの耳には「やさしく愛して」ではなく、「やさしくこすって」と聞こえるからで、そうと知ったら大抵の日本人も噴き出すに違いない》

 つい声に出して「ヘエーッ」といいたくなるものもある。

《ものを数える時に使う単位詞の中で、最も多く使われるのが個「ヶ」である。中国では個の俗字としてかなり古くから「个」が使われてきた。中国人が个を書く際は筆画を続けて書くため、その字はカタカナの「ケ」に似た字となる。これが日本に伝わり「ヶ」を個数の意味で使うようになった》

 こんな文書に出くわすとえらく儲けた気分になり、昔から知っていたかのごとく、人に吹聴してまわりたい衝動にかられる。

 こういった話は、書物でなければ得られない知識である。だから本にのめり込んでしまう。

 本から得た知識のどれくらいが自分の血肉となるのだろう。十代、二十代ならいざ知らず、四十代では望むすべもない。大半が忘却の彼方へと去ってしまう。本は多感な時期に読むべきものである。本を読め、本を読めとうるさいほどいわれた中学時代に、もっと読んでおくべきだった、と今にして思う。何とかしたいという思いから「耳袋」に記すのだが、書いたこと自体も忘れてしまう。もう、手に負えない。

《「……冷たい言い方に聞こえるかも知れないが、君はいま人生で、いわゆる後れ≠とったのだ。たぶんそれは、いつまでも君の人生につきまとうだろう。人それぞれに、いろいろな不利の条件がある。君にはその条件が、いま新しくできたから、不幸と感じるかも知れないが、不利は不利として、果然と背負う以上に道はない。禍い転じて福となるなんて、安易に期待しない方がよい。辛抱とは、そういうものだ」我慢して通り抜ければ、先に報いがあると保証されての辛抱は、辛抱なんていうものではない。当てがなくても、自分にはこの道以外にはないと観念して、ひたすら耐えて歩み続けるのが辛抱であり、一生それで終わっても後悔しない覚悟が必要である》

 何も期待しないでパラパラとめくっていた本の中に、思わぬ勇気をもらったり、慰められたり、打ちのめされたり。こういう言葉は、文字の中に埋もれながら、ほんの少しだけ頭を出している。

 醇度(じゅんど)の高い言葉というのは、そうそうあるものではない。書き手が神経を研ぎ澄まし、興に乗ってきて琴線に同調できるレベルに達した時、稀にこぼれ落ちる言葉である。人生の辛苦を舐めた者に与えられた特権である。そういった言葉を逃さず掬いたい、という思いがある。

 気障ないい方になるが、私の読書は、言葉捜しの旅なのかも知れない。

                   平成十三年六月 小 山 次 男

 追記

 文中に引用した文章は、出典を記していなかったため不明である。

 付記

 平成十八年十月 加筆