Coffee Break Essay


 『言葉を求めて』

 私が本を読むときは、常に左手に赤鉛筆を握っている。気に入った表現があると左手でサーッと線を引く。赤鉛筆の色と質感がよく、ボールペンや鉛筆、ラインマーカーでは、しっくりこない。しかもその赤鉛筆は手の中にスッポリと隠れるくらい、六、七センチ程度がよい。そんな赤鉛筆が私のズボンや上着のポケット、テーブルの上などいたるところにある。

 私の本棚には、赤鉛筆で真っ赤になった本が何冊もある。かつてはその部分を小さな大学ノートに書き写していた。やがて書き写しが終わっていない本がどんどん溜まってきて、追いつかなくなった。本は一旦本棚に入れてしまうと、なかなか手に取る機会がない。だからノートに書きとってきた。はかなくも消えてしまいそうな言葉を、留めておきたかったのだ。そんなノートが何冊も溜まっている。

 最近では本から直接パソコンに打ち込んでいる。パソコンだと言葉の入替が容易である。同類のものを分類整理できるのだが、パソコンを開いた時にしか読み返せないのが難点である。それでもせっせと入力をしている。振り返ると、三十年近くもこんなことをやっている。

 書き留めた言葉を後で読み返してみると、なぜこんな言葉を拾ったのかと、疑問に思うものがいくつもある。いずれの言葉も文章全体の流れの中で、作者が吐露した珠玉の言葉であったはずだが、そこだけ切り取ってみても光彩を放っていないのだ。

「天地無用の人物」
「雨に打たれた雪」
肉親以下、他人以上の微妙な関係

 長い文章も数多くあるのだが、他人の言葉を自分の骨肉にしたいために、書き写しているのである。呑み込んだ言葉がやがてほどよく醗酵し、自分の言葉になることを信じているのだ。実際のところは、未消化のまま脳味噌を素通りしている。

 幼いころから数多くの本を読んでいれば、言葉が身になったのかも知れない。それが欠落している私は、終わりのない作業に没頭し、自分の中に言葉を定着させようといまだに足掻(あが)いている。

 私は自分自身を表現したくて仕方がない。自分という形のないものを、言葉によって形にしたいという欲求がある。言葉が沸々と湧いてくるわけではないが、私の心像風景を代弁している言葉を本の中に捜し求めているのだ。

 人には、他人には知られたくないことが少なからずある。だが、その決して知られたくないことを開陳したいもうひとりの自分がいる。人に知られたくない、秘密にしておきたい言葉だからこそ、その秘密を知られたい。自分のみっともない生きざまを、あるがままに曝(さら)け出し、共感を求めたいのだ。

 だが言葉は、思わぬところで凶器に変貌する。家族や身内を傷つけ、友人を切り裂いてしまう。相手が知られたくないと思っていることを、こちらの裁量で知らしめてしまう。文学は芸術作品、人の心を打つためには、事実を大きく誇張することも許される、という傲慢な考えが、書くものの気持ちを支配する。そのとき、言葉は相手の心を突き刺す刃物になる。

「素っ裸で銀座の歩行者天国を歩けますか。恥部を曝け出すんです。親兄弟、周りの全員を敵に回す覚悟が必要なんです。それがプロというものです」

 作家のS氏から、表現者としての大きな壁を突きつけられる。とてもじゃないが出来るわけがない、という私の気持ちを見透かしたように、

「まず、身内から斬るんです」

 とどめを刺され、うなだれる。自分にはものを書く資質がないのだろうか、と絶望を覚えるのだが、しばらくするとまた書きたい欲求が頭を擡(もた)げだす。

 いつまで続くこの作業、と思うのだが、やめられない。言葉にできない思いを言葉にしたい、そんな思いが尽きない限り、私は徒労のような作業をやり続けるのだろう。

 

                 平成二十一年二月 雨水  小 山 次 男