Coffee Break Essay



 『十三年目の恋文』




 そのひとに初めて出逢った日の夜、気持ちが昂ぶり、なかなか寝つけませんでした。

 昭和六十三年、もう十三年も前のことです。

 会社のアルバイト事務員としてやってきたそのひとに、仕事を指導するため、私は神奈川県大和市まで出向いて行ったのです。そのひとは太い毛糸で編んだ白いセーターを着ていました。清楚な雰囲気の女性でした。

 昼休みになり、そのひとに弁当を買ってきてもらいました。私が頼んだ豚生姜焼き弁当がなくて、焼肉弁当でした。些細なことを覚えています。キビキビとして笑顔の素敵なひとでした。

 名前に建という字があり、そこが大和市だったこともあり、「倭建命(やまとたけるのみこと)の建だね」といったら、そういうことをいわれたのは初めてだと、驚いた目で私を見ました。まだ十九歳でした。

 私は次第にそのひとに惹かれて行きました。会った日に、このひとと一緒にいられたらいいなあ、と思ったのです。やさしい感情が流れ始めていました。

 それまで私は、仕事の指導で何人もの女性に応対してきました。会社にも毎日顔を合わせる女性はいます。でも、これほどまでに感情が突き動かされたのは、初めてのことでした。

「彼はね、パリ・ダカのナビゲーターで、今、日本にはいないの」

 その人の口から、つき合っているひとの存在をほのめかされたとき、後頭部に鉄骨が直撃したような衝撃を受けました。とても太刀打ちできる相手ではない、と思ったのです。ガックリと肩を落とし、重い足取りで一人暮らしのアパートに帰り着きました。

 蒲団にもぐり込んで、カーテンのない摺りガラスの外の薄明かりを眺めながら、

「お前、彼女のこと、好きなんだろ。それだけのことで、諦めるのかよ。本当に好きなら、追えよ。ボロボロになってもいいじゃないか。何もしないで後悔するのかよ。してしまって後悔した方がいいんじゃないのか。彼氏なんて関係ないよ。奪(と)ってしまえ。ぶつかって行け。どうせ砕けるなら、木っ端微塵に砕け散ろ。逃げるな。行け!」

 凄まじい情熱の炎が、私の血を滾(たぎ)らせていました。

 私は、二十九歳を目前にしていました。もう若いころのような恋愛はできない、いつの間にかそう思うようになっていたのです。

 私はそのひとに思い焦がれ、会えない日を辛く感じるようになりました。元来電話嫌いの私でしたが、そのひとからの電話だけは、特別に楽しいものでした。会った日は、嬉々として疲れが吹き飛びました。自分の中に新しい液体が駆け巡っていました。自分のどこにそんな力が潜んでいたのか、不思議でなりませんでした。

 そのひとを腕の中でしっかりと抱きしめ、やわ肌に触れ、ぬくもりを確かめ合う。ひとを愛するということが、こんなにも素晴らしいものだとは思ってもいませんでした。生きている喜びを、全身で感じていました。

 高村光太郎の詩の一節に、

  遊びぢやない/暇つぶしぢやない/あなたは私に会いに来る

  ――画もかかず、本も読まず、仕事もせず――

  そして二日でも、三日でも/笑ひ、戯れ、飛びはね、又抱き/さんざ時間をちぢめ

  数日を一瞬に果す

  ああ、けれども/それは遊びぢゃない/暇つぶしぢゃない

 まるで自分の詩でした。

 そのひとと同じ風景の中にいて、一枚の絵を見て、一編の詩を読んで、音楽を聴いて、それぞれ感じ方は違っても、同じ時間を共有できるひとだと思ったのです。年齢も、趣味も、性格も、お互い見ている方向までも違うけれど、心地よさを分かちあえるひとでした。このひとを生涯の伴侶にしたい、という思いが、私の血液を沸騰させ、感情を臨界点に至らしめました。

 夢は実現しました。

 結婚、出産、子育て、一緒に生活をはじめたとたん、忙しい日々が待っていました。彼女は二十歳で出産を経験し、その日を境に母親になりました。サラリーマンの夫は帰りがいつも遅い。彼女の小さな肩に、重い負担がずっしりとのしかかりました。

 同じ年頃の女性は、まだ遊びほうけていたり、親のすねをかじりながら学生生活を謳歌していました。しかも彼女には、甘えられる実家がありませんでした。ひたすら全てを一身に背負い、頑張ってきたのです。覚悟はしていましたが、忙殺される年月でした。二人の時間をゆったりと楽しむ、そんなのは夢物語だったか……厳しい現実を突きつけられておりました。

 やっと娘が小学校に上がり、そして一年が過ぎました。娘の学校生活が板について来たころでした。また一緒に都内を散歩しよう、思う存分映画を見たいな、そんな話を二人でするようになっていました。もうじきそんな時間がもてるはずだったのです。

 ところが、突然の大きなうねりが、私たちを飲み込んだのです。あっという間の出来事でした。

 彼女は、時間の流れのなかに静止してしまったのです。頭の中のスイッチがパチンと切れたかのように。自失した彼女の目には、歪んだ現実しか映っていませんでした。心の病を得たのです。

 私たちは、何か悪いことをしたか……。神様、あなたの嵐が過ぎ去った後には、さぞかし素晴らしい平穏を用意してくれているのでしょうね。これ以上私たちを試すのは、もう止めて下さい。

 この五年、私たちは十分苦しみました。人並み以上の辛苦を舐(な)めてきました。何度、死の淵を垣間見たことか。そのたびに気力を振り絞り、乗り越えてきたのです。だから、もういいじゃありませんか。これはある意味、人生における大きな成果です。かけがえのない収穫です。

 解き放される日は、そう遠くはないでしょう。人生の時間でいうと、午前三時を少し回ったあたりでしょうか。やがて夜が明けます。目を凝らすと、遠い山の端に黎明(れいめい)の兆しを感じます。

 小学二年だった娘が、中学生になりました。たった三人の家族です。みんなで少しずつ痛みを等分しあいながら、光が差し込むのを待っています。

 思い返せば、二人でよく俵万智の歌を口ずさみながら、あちこち歩きまわりましたね。覚えていますか、あのころのこと。

  金曜の六時に君に会うために 始まっている月曜の朝

  会うまでの時間たっぷり浴びたくて 各駅停車で新宿に行く

  満員の電車の中に守られて うぶ毛ま近き君の顔見る

「君の待つ新宿までを揺られおり」と私が上の句を口ずさめば、あなたが「小田急線は我が絹の道」と下の句を返してきた。私があなたに会いに行くとき、あなたが私に会いに来るために、小田急線を使っていましたね。

 あなたは時折、抗し切れない猜疑心に苛まれ、執拗に私を責めます。でも、もう何も心配することはないんだよ。あなたは、もう決してひとりではない。いつも私がそばにいるのだから。

 妻へ

                      平成十四年七月  小 山 次 男

 追記

 平成十九年六月 加筆