Coffee Break Essay



  『神戸の地震』




 阪神淡路大震災は、一九九五(平成七)年一月十七日午前五時四十六分、深い眠りの中にいた人々を襲った。マグニチュード(M)七・二、最大震度七という未曾有のものだった。この地に大地震が来るなど、誰も考えていなかった。死者・行方不明者五、五〇四名という空前の被害は、戦後最大の惨事となった。

 突然の揺れに目を覚ました瞬間、命を落とした人がほとんどである。かろうじて瓦礫の隙間で命を得ていたにしても、やがて襲ってきた猛火にあえなく果てて行った。もし自分の家族が……と考えると居たたまれない。

 この日から始めた新聞のスクラップは、四月十四日まで続く。スクラップの大半は、朝刊、夕刊に発表される死者、不明者の数を記した囲み記事である。最初は大きかった記事も、日を追うにつれ小さくなる。それが四月十四日まで続いた。

 なぜ、この地震を執拗に追いかけたか。それは私自身が大きな地震を体験し、とても他人事とは思えなかったからだ。大地震は、二度体験した。最初は、私が小学校三年、一九六八(昭和四十三)年の十勝沖地震(M七・九)と、二度目は大学の春休みで帰省していた、一九八二(昭和五十七)年の浦河沖地震(M七・一)である。こんな規模の地震にもかかわらず、私の田舎では死者はなかった。数百年も地震のなかった大都会と、地震の多い田舎の違いである。

 私の手元に一枚の新聞の切抜きがある。震災から二ヶ月が経過した平成七年三月十七日の、読売新聞(夕)である。記事は、一人の警察官の手記である。私は、この記事をもとに自分の体験を織り交ぜながら、何か書けないだろうかと考えた。数ヶ月、もがき続け、断念した。手記を要約しようとしたのだが、ひと文字も削ることができなかったのだ。

 作文を断念し、その全文を抜粋する。

 一月二十三日、私は二回目の出動をした。

 任務は長田署管内の救助活動・遺体捜索。そして村野工高体育館における遺体管理と検視業務の補助であった。

 仮の遺体安置所になっていた体育館は、沢山の遺体と、それに付き添う家族であふれていた。

 そんな中で、私は一人の少女に釘づけになった。

 その少女は、膝の前に置いた焼け焦げた「ナベ」にじっと見入っていた。

 泣くでもなく、身動きもせず、だだじっと見入っていた。

 私は、その少女に引かれるように近寄っていった。

 「ナベ」の中には小さな遺骨が置かれていた。

 「どうしたの」。思わず問いかけた私の一言がその少女を泣かせてしまった。

 どっとあふれだした涙を拭おうともせず、懸命に私の目を見つめ、とぎれとぎれに語り続けた。

 「ナベ」の中は、少女が拾い集めた母親の遺骨であるという。

 その夜(一月十六日)も少女は母に抱かれるように、一階の居間で眠っていた。

 何が起こったかも解らないまま、気が付いたときは母とともに壊れた家の下敷きになって、身動きもできない状態になっていた。

 それでも少女は少しずつ体をずらし、何時間もかけて脱出できた。

 家の前に立って、何が何だか解らないまま、どの家も倒れているのを見た。

 しばらくして、母が家のなかにとり残されていることに気が付いた。

 「おかあさんを助けて」「助けてお願い」大人たちに片っ端からしがみ付き、声をかぎりに叫び続けた。

 誰にもその叫びは聞こえなかった。声は届かなかった。

 迫ってくる火事に、母を助けるのは自分しかいないと哀しい決断を強いられた。

 母を呼び続け、懸命に家具を押し退け、瓦礫を放り投げ、一歩一歩母に近づいていった。

やっとの思いで、母の手を捜し当てた。姿は見えなかった。

 母の手を見つけたとたん、その手を握り締めた。

 その時、少女の手は血塗れになっていることに気が付いた。

 「おかあさん」「おかあさん」「おかあさん」手を握り締め、泣きながら叫び続けるだけであった。

 火事は間近に迫っていた。火事の音が聞こえ、熱くなってきた。

 母は懸命に語りかけたが、かぼそい声で少女には聞こえなかった。

 「おかあさん」「おかあさん」と叫び続ける少女に、名前を呼ぶ母の声がようやく聞こえた。

 「ありがとう。もう逃げなさい」と母は握っていた手を放した。

 熱かった。恐かった。夢中で逃げた。

 すぐに、母を抱え込んだまま、我が家が燃えだした。

 燃え盛る我が家をいつまでも立ち尽くし、見続けた。

 声もでなかった。涙もでなかった。

 翌日、何をしたか、どこに居たか、覚えていない。

 翌々日、少女は一人で母を探し求めた。

 そして見つけだした。

 少女は、いま一人で見つけだした母を「ナベ」に入れ、守り続けている。

 語り続ける少女の目から、いつの間にか涙が消えていた。ただ聞くだけの私は、声もでず、涙だけがあふれ続けた。

 母と二人。この少女がどんな生活をしていたか私は知らない。

 一人になったこの少女に、どんな生活が待っているか、私には解らない。

 「この少女に神の加護がありますように」。生まれて初めて「神」に祈った。

 この少女に、慰めの言葉も、激励の言葉も何も言えなかった。

 何度も何度もうなずくだけで、少女の前を逃げた。

 少女は、最後まで、私の目を見続け、語り、そして語り終えた。

 その目は、もっと多くのことを、私に語りかけ、今も続いている。目は生きていた。

哀しいと思った。強いと思った。

         ※               ※

 少女は小学校三、四年生くらいで、付き添う大人の姿はなかった。警部補は別れてから、少女の名前を聞いていないことに気付いた。その後の少女の消息はわからない。

 以上である。

 あれから間もなく十二年、神戸の地震は忘れ去られている。

                   平成十八年十二月  小 山 次 男 

 追記

 平成十三年十一月の作品に加筆