Coffee Break Essay



 「傷あとの記憶」

 

 年齢は手に現れるという。五十歳を目前にした私の手の甲も、ずいぶんと血管が浮き出て皺が目立ってきている。

 改めて手を眺めると、大きな怪我こそしたことはないが、小さな傷あとがいくつも残っている。思い出せない傷もあるが、痛みの記憶が蘇る痕跡もある。

 右腕の手首に近いところに、十センチほどの白い線が走っている。幼いころ、家の前でタカヒコが振り回していた針金が当たったあとである。泣きながら家に帰って母親に見せた腕が、ミミズ腫れになっていた。あのときの痛みは、鮮明な記憶として残っている。

 小学校高学年の冬、タカヒコの牛乳配達の手伝いをしたことがある。まだ夜の明けぬ青白い光の中、雪をかき分けて牛乳を配って歩いた。吐く息がもうもうと立ちのぼる。北海道の冬の朝は、氷点下十度を下回る。やがてアポイ岳から朝陽が昇り、雪面をまばゆく照らし出す。タカヒコの上気した顔が輝いていた。学校へ行く前のひと仕事である。牛乳屋へ戻るため、軽くなった自転車をこぎ出したタカヒコが、

「かあさん、今日、退院するんだ」

 振り向きざま叫んだ言葉が、今も私の中で輝いている。

 

 左手の人差し指の指紋が、一センチほど縦に切れている。祖父が亡くなり、荼毘(だび)を終えて寺に戻ったときに作った傷である。寺の玄関口で、母の兄弟や親類たちが身体に塩をふりかけ、お清めをしてから中に入っていた。その小皿に盛られた塩の上に小さな黒い塊があった。何だろうと興味を抱いて、その塊をつまんでしまった。瞬間、指に激痛が走った。思わぬ熱さに、手を振って払い落とした。焼けた炭が指にくっついたのだ。

「何やってるの、バカだね。焼いた炭だよ」

 母の声が頭の上でした。

 祖父が死んだのは昭和四十四年、私はまだ八歳であった。改めて年数を数えてみると、今年七十四歳になる母は、まだ三十四歳である。脳梗塞で倒れた祖父は、七年間寝たきりの生活をしていたが、その間に妻である祖母を亡くしている。

 祖父は北海道の片田舎で銭湯を営んでいた。祖父が倒れてからは、母のすぐ上の兄がその跡を継いでいたが、その間に祖父を看病していた祖母が脳溢血で急死したのだ。そのとき母は、まだ二十八歳である。四十六年を経た今になって、改めてそんなことに気づく。指先の傷あとは、祖父が記した痕跡である。

 昨年(平成二十年)の夏、突然、母が脳梗塞で倒れた。幸いにも軽症で済んだが、そのわずか三カ月後、母の兄もまた脳梗塞に襲われた。伯父は半身に麻痺が残った。

 

 後頭部に小さなハゲがある。指で探ると、そこだけ皮膚が盛り上がっている。小学校一年の冬の怪我である。バス通学をしていた私は、朝、みんなでバスを待っていた。バス停の傍らに小さなどぶ川があった。そこに何かが浮いていて、それに向ってみんなで雪球を投げていた。そのとき、ヨシタカが投げた石炭の塊が、私の頭に当たったのだ。

 激しい痛みに手をやると、手袋に血が付着した。ヤッケのフウドにも血が滴っている。驚いた私は、無言のまま家に向かって走りだした。母の顔を見た途端、ワッと泣き叫んでいた。頭だけにかなりの出血であった。母はガーゼをあてがう簡単な処置をして、私を学校に送り届けた。大きな傷だったとみえ、保健室の先生に伴われ、三人で病院へ行った記憶がある。

 中学生になった私は、野球部に入った。三年間、練習に明け暮れた。三年でレギュラーになった私は、左利きだったこともあり、一番バッターでファーストを守った。三番サードはヨシタカだった。守備練習で一塁手は、内野手が処理したボールをひっきりなしに捕球する。ヨシタカは、小柄だが強肩で、守備にも安定感があった。サードゴロを軽快に処理し、低い体勢から投げつけてくるボールは、地を這うような速球だった。シューッという音を立てたボールが、バシッと爽快な音を立ててファーストミットに納まる。その重みがずっしりと腕に伝わる。ヨシタカにボールが飛ぶと、よし、仕留めたという安心感があった。

 昨年、入院している母を札幌に見舞った帰り、病院の近くでレストランを開いているアツホの店に立ち寄った。夫婦二人でやっている小さなレストランである。アツホの妻は、野球部のマネージャーである。卒業以来、三十五年ぶりの再会だった。

 話しは自然と野球の話題になった。ヨシタカが札幌にいて、時々、ユージと一緒に店に顔を出すという。ヨシタカとも卒業以来会っていない。ユージは四番でピッチャーだった。ユージは、私の祖母の弟の子で、母の従弟にあたる。祖母と弟とは歳が離れていたため、ユージと私は同じ歳なのだ。今度はみんなで会おうと約束して、翌日、私は東京へ戻った。

 それから一カ月ほどたったころ、ユージから突然の電話があった。ヨシタカの死を知らせるものだった。健診で少々太り気味と指摘され、ジョギングを始めていのだが、夜の街を走っている最中に突然倒れて、それっきりだったという。ヨシタカと再開したとき、オレの頭のハゲはお前が作ったものだぞ、と教えてやるつもりでいた。本人は覚えていないだろうが。

 身体に残る傷あとは、人生を経てきた年輪である。ヨシタカの痕跡は、消えることなく私の頭皮に残り続けるだろう。なによりヨシタカの感触は、今もずっしりとした重みで右手の中に残っている。

 

               平成二十一年四月 清 明  小 山 次 男