Coffee Break Essay

この作品は、20189月発行の同人誌「随筆春秋」第50号に掲載されております。


 北国で暮らす覚悟


 六月、肌寒い日にはまだダウンジャケットを着ている。この時期、札幌でダウンを着ているのは私と的外れな外国人観光客くらいのものだ。バカかと思われても仕方ないのだが、寒いものは寒い。現に、去年も今年も六月中旬に北海道の峠(どこかは忘れた)では、雪が降ったというニュースを耳にした。そういうところなのだ、北海道は。

 私は十九歳で北海道を離れている。以来、三十二年間、本州で暮らしてきた。学生時代の四年間を京都で、その後就職した東京に二十八年いた。つまり、十九歳から五十一歳までの期間となる。

 再び北海道へ戻ってきたのは、東日本大震災のあった三月である。母と妹が体調を崩したため、会社に転勤希望を出したのだ。以来、七年になるが、本州での暮らしの感触が、いまだに根強く体の芯にくすぶっている。時差ボケのような感覚が、思いのほか私を苛(さいな)ませているのだ。だが、そんなことは周囲には言えない。

「東京かぶれ、まだ治らないのか?」

 と白眼視されるのがオチである。五十八歳という年齢が環境への順応を鈍化させているのは否めない。しかし、もう七年が経過している。原因はそれだけではない。

 もともと私はひどい寒がりである。一月十五日という厳寒期に、予定日より一ヵ月も早く生まれた。母が実家の階段から足を滑らせたのだ。しかも、体の弱い初孫だった。祖母はかつて初産の自分の子を亡くしていた。そんなこともあり、真綿に包んで大切に育てられた。私が寒がりになった元凶は、その辺にあると睨(にら)んでいる。

 北海道の生活環境は過酷である。十月から翌年四月上旬までの半年が、東京でいう冬だ。一月に入ると、一日中氷点下の真冬日が、くる日もくる日も続く。毎日雪が降り、景色が色を失い、見渡す限りモノトーンの世界と化す。あまりの寒さに感覚自体がバカになり、氷点下一桁の日を暖かいと感じるようになる。

「マイナスも一桁になって、ずいぶんと日も長くなった。春だね」

 二月も半ばを過ぎると、こんなことを言って嬉しそうな顔をしている人を見る。確かにあの寒いころに比べればマシかもしれない。でも、

「八〇〇万円のミンクのコートが今なら特別価格で三五〇万円! どうだ、お買い得だろ」

 といわれているのと大差がない。しかし、こっそりと頷(うなず)いている自分がいることも確かだ。それはある意味、寒冷地生活への順応の兆候ともいえる。連日、三十五度を超す真夏日が続いていると、三十一、二度を過ごしやすいと感じるようになる。そういうことなのだ。

 二十四節気では、二月上旬から立春が始まる。雨水は二月中旬、三月上旬が啓蟄、その後順繰りに春分、清明、穀雨と続く。関東の太平洋岸の冬は、来る日も来る日も晴れの日が続く。冬晴れの毎日である。乾燥するがゆえに、風邪もひくし、インフルエンザも大流行する。江戸時代には火事が多かった。それが雨水を迎えるあたりから、春雨が降り始める。春雨前線が長雨をもたらすのだ。ああ、春が始動しだしたなと感じる。春一番が吹くのは、立春から三月上旬の啓蟄にかけてである。この春一番を合図に、一気に虫が蠢(うごめ)きだす。春はゆっくりとした歩調で、うつらうつらとやってくる。

「春の海 ひねもすのたり のたりかな」蕪村の句がそれを語る。春とはそういうものなのである。

 今年の啓蟄は三月六日だが、この日の札幌の最高気温は氷点下二・三度で七十センチの積雪があった。それでも今年は雪が少ないほうで、私が札幌に来た年の三月の積雪は、一三〇センチであった。私が時差ボケという感覚がこれなのだ。この季節感のズレは春に限ったことではなく、四季を通して万事この調子だ。八月なのにアジサイが咲き、お盆を過ぎるともう秋風がススキの穂を銀色に靡(なび)かせている。どうしてそんなに冬を急ぐのだ? そう言いたくなる。

 むかし地理の授業で習ったが、津軽海峡を境に気候区分が変わる。

「ごらん あれが竜飛(たっぴ)岬 北のはずれと……」

 石川さゆりが拳を握りしめ熱唱するように、北のはずれである青森県の竜飛岬までが温帯気候で、その先は亜寒帯気候なのだ。そんな御託(ごたく)を並べても詮(せん)ないことだが、力づくで自分を納得させる、ねじ伏せる必要があるのだ。それでも脆弱(ぜいじゃく)な私のメンタルが、知らず識らずのうちに環境への順応を阻(はば)み始める。「寒いのは嫌だ」と思いながら生活している自分が頭をもたげ出す。ゆえに、いつまで経っても拒絶感が払拭(ふっしょく)できないのだ。

 一昨年(平成二十八年)の秋、私は友達を介してエミと知り合った。エミは二つ年下だ。私は平成二十二年に妻と別れ、エミは連れ合いを亡くして四年が経っていた。お互いに娘がいる。以来、田舎者同士の私たちは一緒に歩んできた。一緒といっても、生活を共にしているわけではない。いずれは、そのつもりでいる。

 エミと出会ってからは、あれほど耐えがたく苦痛だった冬を、あまり意識しないで過ごしている。こんな安直(あんちょく)なことを言ったら女性にぶん殴られるが、なんだか無痛分娩を経験したような、そんな感覚なのである。ただ、寒いことには変わりはない。

 彼女は寒風吹きすさぶ日本海で生まれ育っている。間近に迫る山を背にし、日本海と対峙(たいじ)して暮らしてきた。家々の周囲は軒先まで届く高い塀で覆われている。塀といっても、板を打ちつけただけの殺風景な囲いだ。それは叩きつける海風のただならぬ強さを物語っている。冬場は近づき難い地域である。

 そんなところで彼女は育った。だから安易に「寒い、寒い」などとは言えない。そんな言葉を発したら、「この、へなちょこ野郎」と一蹴(いっしゅう)されるのは、明白だ。彼女は決してそんな言葉を使わないし、そんなふうにも考えないだろう。むしろ私に対しては寛容な態度を示すに違いない。そんな彼女に甘んじる自分を潔(いさぎよ)しとはできないのだ。

 ともすれば逃げ腰で生活してきた自分自身に対し、「いいかげんに、覚悟を決めろ」と喝(かつ)を入れ、自らにナイフを突きつける。半年が冬の生活だぞ。本当にそれでいいのか、そんな葛藤の冬を過ごしてきた。気づいたら、私は北国で暮らす覚悟を容()れていた。自らの脅迫に屈したわけではない。進んで受け入れていたのである。

 でも、寒いものは寒い。

                  平成三十年七月   小 山 次 男