Coffee Break Essay




 「吉良左兵衛の悲劇」 運命に翻弄された吉良上野介の子


 組織のトップが激情にまかせ日本刀を振りかざし、傷害事件を引き起こしてしまった。お上の命により、ボスはその日のうちに粛清、すなわち切腹させられ、組織は解体を命ぜられた。一方、ボスが激昂した相手方は、一切の罪に問われなかった。ボスの名は浅野内匠頭長矩(たくみのかみ・ながのり)、三十五歳。相手は吉良上野介義央(きら・こうずけのすけ・よしひさ)、六十一歳である。事件は元禄十四年(一七〇一)三月十四日、江戸城松の大廊下でのことだった。

 組織の構成員たちは、ボスの身勝手な行動により一瞬にして失職。それは同時に、それぞれの住居まで奪われることを意味していた。一家全員が寒空の下に投げ出されたのだから、たまったものではない。だが、メンバーも家族も、そんなボスを恨むことはなかった。そういう時代だった。
 一方、喧嘩両成敗が「天下の大法」となっていた当時、お咎(とが)めのなかった上野介がのうのうと生きていることは、彼らにとって看過(かんか)すべからざることだった。武士としての面目が立たないのである。武士にはその誇りが傷つけられたとき、どうしても譲れない一線がある。その「武士の一分(いちぶん)」のために、彼らは立ち上がった。吉良上野介暗殺プロジェクトが、極秘裏に企てられたのである。

 元禄十五年十二月十四日、四十七人の刺客は隠密裏にアジトに集結。日付が変わった夜明け前の午前四時過ぎ、集団で吉良の自宅に乗り込み、抵抗する間もないターゲットをまんまと惨殺することに成功した。襲われた方にしてみれば、眠っているところをたたき起こされ、ウォーミングアップなしでいきなり一〇〇メートル走をさせられたに等しい。乗り込んだ側は、殿の仇討ちとあって前夜からアドレナリン全開の大放出状態である。勝てるわけがない。この寝込みを襲うという奇襲攻撃が、圧倒的勝利の要因だった。

 現代感覚ではとんでもない事件なのだが、当時は大きな快哉(かいさい)をもって受け入れられた。庶民はもとより、お上の側からも少なからず称賛の声が上がった。亡き主君の無念をはらすため、愛する妻子を捨てて大義をとったのだ。自らの死を顧みなかった彼らは「義士」と称され、「忠義の士」ともてはやされた。

 この一連の赤穂事件での被害者は、浅野内匠頭か、それとも吉良上野介か。はたまた、路頭に迷った赤穂藩士とその家族だろうか。実は表舞台には出て来てはいないが、とんでもないとばっちりを食らった者がいた。この事件最大の被害者といってもいいかもしれない人物、それは吉良上野介の子、左兵衛義周(さひょうえ・よしまさ)だった。彼は、幼少より数奇な運命をたどっている。
 吉良上野介の妻富子は、米沢藩主上杉綱勝の妹だった。その綱勝が、子のないままに急死した。本来ならば上杉家はお家断絶となるところだが、妹富子の子綱憲を緊急的に養子とし、急場をしのいだ。つまり、上野介の嫡男(ちゃくなん)が末期(まつご)養子として上杉家を継いだのである。
 その後吉良家では、上野介の次男三郎が嫡男となっていたが、今度はこの三郎が夭折(ようせつ)した。そこでやむなく綱憲は、その後生まれていた次男左兵衛を実家である吉良家の養子として差し出した。ややこしい話だが、上野介は実子である上杉綱憲の次男、つまり孫の左兵衛を養子として迎え入れたのである。元禄三年四月、左兵衛五歳のことであった。

 元禄十四年三月、江戸城松の廊下にて浅野内匠頭から刃傷(にんじょう)を受けた上野介は、その年の十二月に隠居し、左兵衛が吉良家の家督を継いだ。赤穂の義士たちから襲撃を受けたのは、その一年後のことである。左兵衛は十八歳になっていた。
 左兵衛には上杉家からの付き人が三名いた。新貝弥七郎、山吉新八、村山甚五左衛門である。討ち入りのとき、村山は両刀を寝所に捨てて逐電(ちくでん)。新貝は討ち死にし、山吉は須藤与一右衛門と共に左兵衛の前に立ち塞(ふさ)がって戦い、重傷を負った。左兵衛自身も長刀を持って奮戦した。
 左兵衛は額と背中から腰にかけて重傷を負っている。左兵衛と戦ったのは武林唯七とも不破数衛門とも言われている。いずれも剣客である。左兵衛は前後左右を義士に取り囲まれていた。だが、ちょうどそのとき、上野介を討ち取った勝ち鬨(かちどき)があがった。左兵衛は捨て置かれたことにより、からくも斬首を免れた。
 一説によると、左兵衛は背中の傷が深くて気絶し、気づいて上野介の安否を確認するため寝間にいったところ、もう討たれているようだったので力を落とし、その場に倒れたともいわれている。いずれにせよ左兵衛の働きは、武士にふさわしい奮戦だった。相手が強すぎた。それこそ鎧袖一触(がいしゅういっしょく)で吹っ飛んでいたのだ。

 元禄十六年二月四日、赤穂義士預りの諸邸に切腹言い渡しの上使が向かうのに先立ち、吉良左兵衛は評定所に呼び出されている。
 左兵衛は、討ち入りを防げなかったことが「不届き」とされ、改易のうえ、高島藩諏訪家へのお預けを言い渡されている。家臣たちでさえ戦いに参加した者はわずかであったなか、長刀で戦い、負傷して倒れたのであるから、できる限りのことはしている。しかし幕府は、父親の首を取られたというだけで「不届き」とした。異例ともいえる厳しい処分だった。討ち入りした者全員が切腹だったから、それと釣り合いを取ったのだろう。世論もまた、討ち入りした側に同情的だった。
 左兵衛の身柄は、評定所でただちに諏訪家側に引き渡された。そもそもこの時代、大名家の国許にお預けになるということは、代用監獄に幽閉(ゆうへい)されるに等しかった。左兵衛への随行を許された家臣は、左右田孫兵衛と山吉新八のわずかに二人だけだった。また、討ち入りのときの左兵衛の傷が深く、道中は外科医も同行している。

 高島城南丸の施設に収容された左兵衛は、外部との連絡を絶たれた。髭を剃るときも剃刀は許されず、鋏(はさみ)が用いられたという。
 宝永元年(一七〇四)六月二日、左兵衛の実父上杉綱憲が没し、続いて八月八日には、吉良上野介の妻で左兵衛の祖母富子が亡くなっている。
 このような境遇の中にあって、左兵衛自身、長生きはできなかった。宝永三年、左兵衛は以前からしばしばあった発熱と身体の震えの症状が悪化し、やがて尿が出なくなり、ついに一月二十日に死亡した。二十二歳だった。遺骸は幕府から検死が来るまでの間、塩漬けにされた。

 二月三日、検分が済んでも断絶した吉良家からの引き取り手はなかった。左兵衛の亡骸は、法華寺に土葬された。遺臣の孫兵衛と新八は、左兵衛の石塔を自然石で立てて欲しいと法華寺に金子(きんす)三両を納めている

 左兵衛は、悶々たる失意のうちに世を去ったのだろう。それを陰ながら支えていた二人の遺臣のその後は、どのようなものだったか。なんとも哀れな最期である。 了



 追記

 遺臣の山吉新八は、その後米沢に戻り上杉家に仕えている。上杉家の「家中諸士略系譜」には家譜の掲載があり、幕末まで米沢藩士だったことが窺える。また、ご子孫の存在が斎藤茂著『赤穂義士実纂』によって示唆されている。
 また、左右田孫兵衛は吉良に帰り、そこで死去している。墓碑も現存しているという。以上、赤穂義士研究家・佐藤誠氏からご教示をいただいた。


参考文献

山本博文著「これが本当の『忠臣蔵』―赤穂浪士討ち入り事件の真相」〔二〇一二年 小学館新書〕

               平成二十八年五月  小 山 次 男