Coffee Break Essay


この作品は、室蘭民報(2014年4月5日)夕刊「四季風彩」欄に掲載されました。

  
 
改訂版 化石の時間


 小学校五年生のこと。同じクラスの賢治が、二枚貝の化石をポケットから取り出した。

「浜で……見つけたんだ。石を割ったら、ボロッと出てきた」

 茶褐色の艶々(つやつや)した、生きているような化石だった。貝でありながら、すでに石である。その神秘性に、私はすっかり魅了された。

 当時、子供たちの間ではステッカー集めが流行っており、私はありったけのステッカーとその化石を交換した。その後、賢治は巻貝を含め様々な化石を持ってきては、無造作に私にくれるようになった。賢治は口数の少ないアイヌ系の少年だった。

 数ある化石の中で、巻貝の化石はひときわ美しかった。貝殻の大半が失せ、内臓の部分がオパールに似た結晶となって、表面には霧氷のような模様が浮き出ている。私はその冷たく硬い感触を確かめながら、これが石になるまでの歳月を想像していた。

 ある日学校へ行くと、賢治が待っていたように近づいてきて、

「カメの化石を見つけた」

 と私の耳元で囁(ささや)いた。大きな岩の中にあってどうしても取れない。見に来ないかという。化石のありかは、賢治ひとりの秘密だった。

 そこは街はずれの海岸沿いの崖っぷちだった。岩肌がむき出した急斜面を中ほどまで登ったところに、半ば埋もれて化石はあった。直径十センチほどの甲羅が、大きな岩の中に鮮やかに浮かんでいた。

「十勝沖地震で出できたんだ。こんな岩、ながったもの」

 その二年前(一九六八年)、北海道の太平洋岸一帯を、マグニチュード七・九という大地震が襲った。その地震でこの崖は大きく崩れ、下を走る国道も一時、通行止めになっていた。

 持っていった金槌で周りの岩を叩いたが、甲高い金属音とともに跳ね返されるだけで、ビクともしない。しばらく岩と格闘したが、海から吹きつける強い寒風にあおられ、化石を取り出すことはできなかった。

 賢治とはその後も何度か化石探しをしたが、カメの化石だけはどうにもできなかった。

 中学生になって、お互い部活などで忙しくなり、化石探しから足が遠のいた。卒業後、賢治は集団就職で本州へ行き、私は札幌の高校へ進学した。賢治とはそれっきりになった。

 その後、あのカメの化石は、跡形もなく姿を消した。一九八二年、マグニチュード七・一の浦河沖地震がこの地を襲った。この地震で、化石は再び時間の堆積の中に埋もれてしまった。あの化石が未来の賢治に発見されるのは、いつのことになることか。当時大学生だった私は、帰省した折、気になってカメの化石を探しに行っていた。

 ふるさと様似(さまに)を離れて間もなく四十年、賢治は今、どこで何をしているだろう。時折、本棚に飾ってある巻貝の化石を眺めながら、寝る前の酒を楽しむことがある。心地よい酩酊の中で、遠い少年時代を眺めている。

                            小 山 次 男


               平成十七年五月 初出   平成二十六年三月 改訂