Coffee Break Essay


この作品は、アポイ岳ファンクラブ会報「アポイマイマイ」46(2006年8月発行)に掲載されております。


  『化石の時間』




 初めて化石を手にしたのは、小学校五年のことだった。同じクラスのTが浜でみつけたといって、ホッキ貝に似た二枚貝の化石を持って来た。

「石を割ったら、ボロッと出てきたんだ」

 といってポケットから取り出した。それは茶褐色で艶のある生きているような化石だった。だが、それは貝でありながら、すでに石であった。その神秘性に、私はすっかり魅了された。

 当時、子供たちの間ではステッカー集めが流行っており、私は持っていたありったけのステッカーとその化石を交換した。その後、Tは巻貝を含め様々な化石を持って来ては、無造作に私にくれるようになった。彼は口数の少ないアイヌ系の少年であった。

 数ある化石の中で巻貝の化石は、ひときわ美しかった。貝殻の大半が失せ、内臓に当たる部分がオパールに似た結晶と化し、表面には霧氷のような模様が浮き出ていた。ふいに臭いを嗅いでみたい衝動に駆られるが、もちろん臭いはない。それは紛れもなく石であった。私は化石を眺め、冷たく硬い感触を確かめながら、それらが石になるまでの歳月を視ていた。

 ある日学校へ行くと、Tが待っていたかのように近づいてきて、

「カメの化石を見つけた」

 と私の耳元で囁いた。大きな岩の中にあるのだが、見に来ないかと誘われた。それまで化石の在り処は、Tひとりの秘密だった。

 さっそく二人で、その秘密の場所へ出かけた。そこは街はずれの海岸沿いの崖っぷちだった。岩肌がむき出した急斜面を中ほどまで登ったところに、半ば土に埋もれてその化石はあった。直径十センチほどの甲羅が、大きな岩の中に鮮やかに浮かんでいた。今考えると、それは珊瑚のようなものだったかも知れない。だが、Tがカメだと信じていたので、私の目にもカメに映った。

「十勝沖地震で出できたんだ。こんな岩、ながったもの」

 その二年前に北海道の太平洋岸一帯を、マグニチュード七・九という大地震が襲った。その地震でこの崖は大きく崩れ、道路もしばらく通行止めになっていた。

 さっそく持って行った金槌で周りの岩を叩いたが、甲高い金属音とともに跳ね返されるだけで、ビクともしない。しばらく岩と格闘したが、海から吹きつける寒風に耐え切れず、化石を取り出すことを断念した。その岩を土で覆い隠し、目印に大きな石を置いて、二人だけの秘密にした。

 それから我々は海岸に下り、いくつかの化石を手に入れた。海岸は護岸が施された国道の脇で、波打ち際が間近にせまる狭い砂浜だった。そこはふだん人が来るようなところではなく、せいぜい漁師が昆布拾いに立ち寄るくらいだった。砂浜なのだが、ごろごろした岩が多くあり、その砂岩の中に化石が閉じ込められていた。

 Tと一緒に見つけた化石は、三十年を経た今も実家の物置の奥深くにある。もう何年もダンボールを開けていないが、真綿に包まれたそれらの一つ一つを、はっきりと思い浮かべることができる。

 Tとはその後も何度か化石探しをしたが、カメの化石だけはとうとう取り出すことができなかった。

 中学生になって、お互い部活などがあり疎遠となった。卒業後、Tは集団就職で本州へ行き、私は札幌の高校へ進学した。Tとはそれっきりになってしまった。

 一昨年、日帰りで遊びに行った奥秩父の荒川村の川縁で、砂岩に散りばめられた貝殻の化石を見つけた。こんな山奥がかつては海だったのか、と私は再び化石の経てきた時間に思いを巡らした。だが、その長大な時間に、どうしても想像の糸が結びつかない。

 数万年、数千万年という年月を、人間の時間で推し量ろうとすること自体、無謀なことなのかも知れない。我々の尺度では、せいぜい「永遠」と表現するのが精一杯なのか。

 Tが見つけたあのカメの化石だが、二十数年前に再び北海道を襲った浦河沖地震で、跡形もなく姿を消した。崩れ落ちたか土砂に埋まってしまったのだろう。あの化石が再び姿を現すのは、数百年、いや、もっと遥かな先かも知れない。未来のTに発見される日まで、化石はまた時間の堆積の中に埋もれてしまった。

 東京に暮らして二十数年。ややもすれば忙殺されそうな日々を過ごしている。そんな中、秩父で見つけた化石を手元に置き、一日の疲れを酒の酩酊の中で開放しながら、沈黙が語りかける言葉に耳を傾ける。

 その後、Tはどこで何をしているのだろう。心地よい酔いが、遠い少年の記憶を呼び覚ます。


                平成十七年五月 小満   小 山 次 男