Coffee Break Essay




 「完全死の目覚め」


 人が死ぬ。やがて周りの人々から忘れ去られていく。これは自然の成り行きなのだが、無性に悲しいことに思えた。二十三歳で父を亡くしたとき、真っ先に頭に浮かんだことだった。

 矛盾した言い方かもしれないが、人は死んでも、人々の記憶の中で生き続けることができる。周囲の人々に記憶された死者は、時に思い出され、口に上(のぼ)される。故人を知る友人・知人がやがて物故者となった後、その記憶が最後まで引き継がれるのは、子や孫、または兄弟姉妹やその子である甥姪といった親族である。死後も二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌といった年忌法要によって死者の記憶が呼び起こされる。もっとも、現代においては、三十三回忌もおぼつかないだろうが。

 やがて、死者を知る者がこの世からまったくいなくなる。そのとき、本当の意味での死が訪れる。「死」が完結するのだ。このような死を、「完全死」とか「絶対死」と呼ぶことができるのではないだろうか。

 私は平成十七年から八年がかりで、祖母(母方)の家系を調べていたことがある。祖母の弟、つまり大叔父のことをエッセイに書いてネットで発表していたのだが、それを目に留めた赤穂義士研究家の佐藤誠氏との知遇を得た。それが家系調査の始まりだった。

 祖母の家系は、熊本藩の下級士族で、姓を米良といった。二代米良市右衛門のとき、元禄赤穂事件に遭遇している。四十七士による吉良邸討ち入りの後、熊本藩にお預けとなっていた堀部弥兵衛の切腹に際し、介錯を仰せつかっている。大叔父はその直系の子孫に当たる。

 だが、米良家の出自については、まったくといっていいほど何も伝わっていなかった。熊本藩士であったこと。介錯をした者がいたこと。曾祖父米良四郎次(しろうじ)が熊本から屯田兵として札幌に入植したことなどで、それ以上のことは誰にもわからなかった。曾祖父が多くを語らなかったのだ。

 曾祖父は、明治二十二年に熊本より屯田兵として札幌の篠路兵村に入植している。曾祖父の兄亀雄が、明治九年に熊本で勃発した神風連(しんぷうれん)の乱で自刃している。翌十年には叔父左七郎が西南戦争で西郷軍に付き、政府軍との銃撃戦に倒れている。いずれも新政府に対する反乱であったため、本人はもとよりその家族は逆賊の汚名を着せられた。曾祖父が多くを語らなかったゆえんも、その辺にあるのではないかと思われる。

 赤穂事件とのかかわりも、昭和八年の曾祖父亡き後、昭和三十八年に米良家の神棚から古文書が発見されるまで、詳(つまび)らかではなかった。その古文書の中に、曾祖父が熊本を後にする際に、菩提寺(ぼだいじ)の過去帳を写し取ってきたものがあった。そこには、五十一名の名が記されていた。その後、熊本での墓碑の発見や除籍謄本の調査により、物故者は総勢八十五名になった。現時点での米良家の系譜は、現存者を含め一二二名が名を連ねている。

 熊本藩主である細川家所蔵の古文書から、断片的ではあるが初祖、そして初代から十代までの事跡をたどることができた。熊本在住の史家眞藤國雄氏から送られてくる史料が、佐藤誠氏により翻刻された。それらの集大成は、全三六四ページにわたる『肥後藩参百石 米良家』として、平成二十五年六月に発刊することができた。

 複数の史家の協力により、四百年にわたる家系を掘り起こすことができた。下級士族の家系では、稀有なことである。私は、この家系調査によって、それまでまったく知られていなかったご先祖様を呼び覚ますことができた。まさに芋づる式にズラリと連なって出てきたのである。平成二十二年に佐藤誠氏と熊本を訪ねた際には、初めて米良家の墓を訪ね、その墓地を管理するお寺にて永代供養を執り行った。それが家系調査の一つの到達点であった。ご先祖様のご指名により、墳墓の地熊本に呼び寄せられた、そんな感慨を持った。曾祖父が熊本を離れて、すでに一二〇年が経過していた。

 実は、この家系調査を開始してほどないころ、奇妙なことが起こっている。私は平成二十三年二月まで東京にいた。その時点で、私が家系を調べていることは、親類縁者の誰にも明かしていなかった。ある日、ふるさと北海道の様似(さまに)で一人暮らしていた母のもとを、見知らぬ男が訪ねてきた。坊さんでもない、占い師風でもない不思議な男だったようだ。ただ、不審者というほどでもなかったらしい。

 その男は、家の表札を見ながら占いのような話をしていったという。そんな玄関先での話の中、

「お宅の家系にご先祖様のことを調べている方がいますね。そのことをご先祖様がたいそう喜んでいらっしゃいます」

 というようなことを言って立ち去ったという。母には何のことか見当もつかなかった。私がそんなことをしているとは、夢にも思っていなかったのだ。後日、母との電話で、

「……変な男が訪ねて来て、そんなことを言ってたんだけど、どういうことだろう。気持ちが悪いね」

 という話を聞き、背筋が凍った。中途半端な気持ちでやってはいけないことなのだと思った。そんなこともあって、史料の調査に一段と拍車がかかった。憑()かれたように夢中になり、気づいたら八年が経過していた。八十五名の死者のうち、系譜の中での関係性を見出せなかったのは、わずかに四名である。やがて出版の話がもちあがり、前述の書の完成を見た。収録した系譜の脇に、不詳者四人の名も書き連ねた。

 人間は死んでしまったらどうなるのだろう。こればかりは誰にもわからない。死後の世界、つまり次のステージがあるのだろうか。曖昧模糊(あいまいもこ)とした感情に近いが、ご先祖様を掘り起こす作業の中で、「漠然とした確信」を得たような気がした。だがそれは、軽々しく吹聴してはいけないことのように感じられた。

                 平成二十八年六月  小 山 次 男