Coffee Break Essay


  『漢字は難しい』




 最近読んだエッセイの中に、全て旧字体、旧仮名遣いで書かれたものがあった。誰が書いたものか忘れたが、最近書かれたものである。その文章に、濃密な重量感と、不思議な安定感を覚えた。

 「日本人は母国語を習得するのに、欧米人の数倍のエネルギーを要しており、それがために日本が国際社会に遅れをとっている」ということで、使用漢字が大幅に制限され、画数も簡略化されて、現在に至っている。

 いわゆる昔の字といわれる旧字体は、正しくは正字という。画数による姓名判断は、この正字で行われる。

 数年前に文章校正の勉強をしたことがある。苦労したのは、原稿を引き合わせてゆく校正実技の方より、漢字の勉強だった。旧字体を習得しなければならなかった。現在の漢字を旧字体に直せという問題で、大きくつまずいたのである。結局、ギブアップした。唯一の成果は、申込書や領収書などにサインをするときなど、自分の名前を旧字体で書くようになったことぐらいである。

 現在、旧字体を許容している唯一のものとして、人名漢字がある。姓では斉藤さん、渡辺さん、沢田さんなどがいい例だろう。名では「鉄―鐵・鐡」「広―廣」などがあり、名前ゆえに正しく書かないと失礼になる。サイトウさんと聞いただけで斎藤さんなのか齊藤さんか、はたまた齋藤さんなのか分からない。斉藤でいいと言われるとほっとするが、どうしても齎藤でなければダメだという人もいる。

 その点、同じ多数派の「藤」姓でも佐藤さんは楽である。別の佐藤さんを見たことがない。だが、そうも安心していられない事例に出会った。最近まで、私の姓の「近藤」は、これ以外にはないと思っていた。だから、

「コンドウさんは、近い藤の近藤さんでいいのですね」

 と電話などで訊かれることがあると、こいつはアホかと内心思っていた。ところがあるとき、近所を散歩していて、「金藤」という表札を見つけたのだ。こういうコンドウもあるのかと感心したが、ひょっとしてキンドウと読むのかも知れないと思った。「黄金」のゴンで、ゴンドウかとも。インターホンを押して訊ねる訳にもいかず、困っている。

 近藤の上前をはねる人が私の会社にいる。フジワラさんである。フジワラさんは疑うことなく「藤原」さんだと誰もが思うだろうが、「冨士原」さんなのである。しかも富士山の「富」ではなく、「冨」なのだ。書く方にとって、こんな意地悪な名前はいない。冨士原氏曰く、

「ひとの名前を間違えるヤツは信用できない」

 と。また、

「富士原ならまだ許せないこともないが、藤原と書いてきたやつは論外だな」

 と言っていたのを耳にしたことがある。たかが点ひとつの話しだが、緊張感を強いられる名前である。

 新聞などでは、常用漢字しか使用できないため、しばしばへんてこりんな文字を目にする。「たん(蛋)白質」、「は(爬)虫類」、「ら(拉)致」といったものだ。引っ張って運んで行くから「拉致」であり、ほころび破れるから「破綻」である。「ら致」「破たん」となれば、視覚からは意味がとれない。文字が単なる記号となり、本来漢字がもつ表意が失せている。これは由々しき問題である。

 こういう文字のおかげで、読んでいる途中、石につまずいたようにズッコケることがある。「玉璽」(ぎょくじ、天皇の実印)という字を常用漢字表に入れるくらいなら、書けなくてもいいから読むための漢字を再収録すべきである。有識者たる人たちは、どうしてこういう過ちを犯したのか、理解に苦しむところである。こういう制限を緩和しなければ、日本人はますますバカになり、本当に破綻してしまうのではないかと危惧している。

 パソコンの普及が日本人に漢字を呼び戻しつつある、という朗報を新聞で読んだ。キーボードの変換により、書けないけれど漢字が使えるようになったことによるものらしい。小学生がパソコンで書いた作文がいい例だという。このような流れを受けて、漢字の制限を緩和しようとする動きもある。漢字検定試験が大盛況だというのも面白い。

 パソコンの習得が、人々に言葉の再発見をもたらしつつある。有史以来の画期的な事件が進行しつつあるのかも知れない、と新聞は締めくくっていた。

 現に、「漢字書けない王選手権大会」で上位に入賞しそうな私が、こうしてせっせと文章を書いているのが、何よりもいい例である。

 

                    平成十八年十一月  小 山 次 男

 

 追記

 平成十三年九月『漢字の尊厳』を改題、加筆