Coffee Break Essay



 『もうひとつの神田川』




 通勤で地下鉄丸の内線を利用している。御茶ノ水駅と淡路町駅の間で、電車が地上に出る瞬間がある。電車が神田川を渡るほんの数秒の時間である。見上げると頭上に聖橋が見えるが、ぼんやりしているとあっという間にまた地下トンネルに入ってしまう。都心でこれほど神田川の川面に近づけるのは、ここしかないだろう。毎朝の楽しみである。

 神田川と聞いてまず連想するのは、かぐや姫の『神田川』だろう。

《あなたはもう忘れたかしら/赤い手ぬぐいマフラーにして/二人で行った横丁の風呂屋……》

 さだまさしの『檸檬』では、

《食べかけの檸檬 聖橋から放る/快速電車の赤い色がそれとすれ違う……》

 となる。なに古いこといってるんだ、といわれかねない。

 東京に来てまず見ておきたいものの中に、東京タワーや皇居、渋谷のハチ公のほかに、この神田川があった。上京して間もないころ、神宮外苑の銀杏並木越しにチラリと見える近代絵画館を、しばらく国会議事堂だと思っていた。私はそんな田舎者だった。神田川も見てみたいと思いつつ、なかなかその機会がなかった。

 ある日、JRの水道橋近辺を歩いていて、足元に流れている大きなドブが神田川だ知って驚いた。もっと大きな、多少はきれいな川を想像していたのだ。

 二十八歳を前に会社の独身寮を出て住んだのが、杉並区和泉のアパートだった。アパートといっても、大家さんがかつて住んでいた古い一軒家を改造したものである。都心まで一時間もかかる所でも、小奇麗なワンルームなら六万円代は下らない時代に、二万二千円の家賃は魅力的だった。

 私の希望は、ワンルームで日当たり良好、会社まで電車一本で行け、欲をいえば二十三区内がいいと思っていた。さらに山手線の内側にあり、古本屋街がある神田神保町を通る路線で、そこが学生街であればなお結構という欲張りなものだった。

 おりしも昭和六十三年、バブル真っ盛りである。そんな条件で安価な物件はどこにもなかった。どこも、これでもかといわんばかりに家賃を上げていた。部屋探しに半年も駆け回り、たどりついたのが件(くだん)の物件だった。

 部屋探しに疲れ、大家と現地で待ち合わせたのが、夕方の六時を回った時間だった。十一月の寒い日で、外はすでに真っ暗だった。ヤケッパチになって、その場で決めた。幸運なことに会社まで電車で一本、神保町を通過する。おまけに明治大学を控えた学生街で、日当たり良好。しかも神田川が近くにあり、玉川上水もあった。

 当時、こんな物件に住んでいたのは、会社の中でも私ひとりである。四畳半風呂なし、共同トイレ、畳半分の台所に裸電球でドアーは襖だった。これが二万二千円の種明かしである。これで同棲でもしていれば、文句なしあの歌の『神田川』だった。

 風呂屋は近所に三軒もあり、私のお気に入りは神田川にかかる辯天(べんてん)橋近くの辯天湯だった。毎日、ウキウキしながら銭湯へかよった。帰りが遅い日は、会社から銭湯へ直行した。赤い手ぬぐいだけは気恥ずかしくて持てなかった。

 夜になると二十代前後の若者が、風呂桶を持って歩いていた。女性も多かった。今どきの東京に、こんな街があることが不思議でならなかった。

 このあたりの神田川は上流だけあって、水質はきれいだった。けれど、川の両側は高く汚いコンクリートの直立護岸になっており、川というよりは排水路といった風情だった。それでも私にとって、神田川は、神田川であった。

 神田川は、井の頭公園の池を源泉とする一級都市河川である。杉並区を経て中野区で善福寺川を、その先の新宿区で妙正寺川を合流する。さらに下って文京・千代田の区境で日本橋川を分流し、中央・台東の区境で、隅田川に合流する。

 神田川は、江戸初期に都市水道として整備され、江戸城東側の神田・日本橋方面へ飲料水を配水する上水道だった。

「江戸っ子だってねェ」

「神田の生まれよ」

 宵越しの銭は持たないと自負した職人気質の江戸っ子が、「上水の水で産湯をつかった」と啖呵を切る、そんな暮らしの中心に神田川はあった。

 そんな神田川も高度経済成長とともに都市に埋もれた。ビルに背を向けられ、都心の間隙を流れる死の川と化した。現在、神田川の水量の九十パーセントは、浄水場から放出される高度処理水だという。

 そんな神田川近くのボロアパートが、私にとっての安らぎの場だった。冬の夜、裸電球の下で米をとぐ。手が割れそうなほど、水が冷たい。電球の光でキラキラと輝く米粒に、きれいだなあと感じていた。長かった寮生活からの開放感だった。

 しかし、この生活も長くは続かなかった。ほどなく、ひとりの女性と知り合った。年齢も違うし、歩んできた道も異なっていた。ただ、お互いに共有できる価値観があった。それが二人をひきつけた。

 元号が昭和から平成に変わり、沈丁花の花がほのかに香るころ、私の部屋の風呂桶が二つになった。お互いをもっとよく知ろうと、愛の強化合宿をはかった。成果は十分にあった。あり過ぎた。その年の春に彼女は妻になり、秋には母親になった。

 お互いにこの地を離れがたく、高級住宅街が建ち並ぶ中、歩いてほどない場所にみね荘という大時代な名のアパートを見つけた。だが二年半後、そこも時代の波に翻弄されるように、高級マンションへと建て替わった。

《若かったあの頃 何も怖くなかった/ただあなたのやさしさが 怖かった……》

 神田川には、特別な想い出がある。

                     平成十四年三月  小 山 次 男

 追記

 平成十九年六月加筆