Coffee Break Essay


この作品は、2007年9月発行の同人誌「随筆春秋」第28号に掲載され、
日本エッセイスト・クラブ編『2008年版ベスト・エッセイ集』(文藝春秋刊)に収録されました。
2008年8月刊行。

 『介錯人の末裔』


 メラ爺は、亡祖母の弟、つまり私の大叔父である。姓が米良なので、いつしかメラ爺と呼ぶようになった。爺は北海道の小さな町役場を定年退職してから、山の監視員などをして悠々と暮らしていた。

 私が様似(さまに)町実家にいたころ、爺はいつも突然やってきた。

「オイ! キョーコ、小樽の姉に会ってきたどォ」

 ドタドタと入ってきてソファーに座るなり、

「いやー、たまげだ。すっかりババアだァー」

「なーに、自分だっていいジジイだべさ……」

 台所から出てきた母を無視して、

「そうだなァー、最後に会ったのは……満州事変の三、四年後だったがなァ。ざっと四十年つうどごだな」

 長姉は明治生まれで、爺とは十九も歳が離れていた。

 私が結婚してからは、家族で帰省すると、毎日爺が顔を出す。

「――なにーッ、おめだち釣りもしたごどねえのが。たまげだもンだな、東京は」

 さっそく近くの漁港へ出かけた。妻と小学生の娘には初めての海釣りだった。

 しばらく糸を垂れていたが、時間帯が悪かったせいか、まるで釣れる気配がない。

「サガナは、港の周りを回遊してるがら、そのうち釣れる」

 爺は断言した。八月下旬の北海道の岸壁は、少々肌寒さを感じる。気づくと爺の姿がなかった。心配して見回すと、反対側の岸壁をよじ登る爺の姿があった。

「エサ、まいてきたどォー」

 下腹をさすりながら爺が戻ってきた。岸壁の外側には消波ブロックが積まれており、腹が冷えた爺はそこで用を足してきたのだ。その後、面白いほどチガが釣れ出し、妻の竿にはサバまでかかった。ふとサバ味噌が私の頭をよぎった。

 現在、私の手元に、すっかり色褪(いろあ)せた新聞の切り抜きがある。「討ち入りの日、マチの話題に」という見出しで、五十代の爺が神妙な顔つきで巻物を読む姿がある。このメラ爺の祖先が、赤穂浪士事件にかかわっていた。

 吉良邸討ち入り後、大石内蔵助以下十七名は、高輪の熊本藩邸にお預けになっていた。義士切腹の際、堀部弥兵衛の介錯を行ったのが米良市右衛門で、爺はその直系の子孫に当たる。

 実はこの話、昭和三十年代に初めてわかったことだった。それまで、細川家にかかわる家系だということはわかっていた。その判明した経緯が興味深い。

 昭和三十三年、私の曾祖母が亡くなった。続いて祖父が脳溢血で倒れ、その看病をしていた祖母がこれまた急死。爺にとっては、母親と姉を相次いで亡くしたことになる。たて続けの不幸に、これは何かあるに違いないと、神憑(かみがか)りの婆さんの神託を仰いだ。

 お告げは、謎めいていた。

「獣を殺(あや)める者がいる。倒れている。それは壁にくっついている。だから悪いことが起きたのだ」

 何とも要領を得ないお告げに、みな頭を抱え込んだ。家中探したが見当がつかない。そのうち、米良家に何年も開かれていない神棚があることに気がついた。

 恐る恐る開けてみると、中から真白い雌雄のキツネの置き物が一対と古文書が出てきた。古文書には何が書いてあるのか、誰も読めない。当時、町内きっての碩学(せきがく)であった収入役に読んでもらって、右の一件が明らかになった。

 米良家には、女は神棚に触ってはいけないという家訓があり、父親が亡くなってから数十年、神棚は閉ざされていた。爺は、役場に勤める傍ら狩猟を行う。神棚は壁にくっついており、中から出てきたキツネは雌が倒れていた。お告げが解けた。

 それから毎年討ち入りが近づくたびに爺が引っ張り出され、地方のテレビに出演したり、新聞の取材があったり、爺はすっかり街のスターになってしまった。

 父親の影響もあってか、爺は何かにつけ「……そこらの民、百姓とはわけがちがう」、「俺は九州男児だ」というのが口癖で、この一件以来その頻度が倍増した。

「あれ、シュッちゃん、生まれ、浦河だべさ。道産子でしょ」

 母が混ぜ返すと、

「黙れ、無礼者! 細かいことはいうな」

 父親が熊本なのだから、当然自分も九州男児なのである。だが、九州男児がいかなるものか、爺にもよくわからなかった。

 そのころ、細川家直系の細川護熙(もりひろ)氏が総理大臣になった。首相がニュースに出るたびに、テレビの前に平伏して「ハッ、ハーッ、トノー」とやっていたが、残念なことに細川政権は短命に終わった。

 そんな爺も妻を亡くし、軽い脳梗塞を患ってからは、コケシのようにおとなしくなった。やむなく、札幌から迎えにきた息子に従い故郷を離れた。

 平成十七年、私は偶然にも近世史家の佐藤誠氏の知遇を得た。佐藤氏は東京在住の義士研究家である。さっそく私は、米良家に埋もれていた古文書を借り受け、佐藤氏に披見した。佐藤氏はこの文書を翻刻するとともに、系譜を作成してくれた。その家系図の第十四代当主米良周策という文字に、電話口の爺は声を震わせ喜んだ。

 その後、爺の伯父が神風連(じんぷうれん)の乱(明治九年に熊本で起こった不平士族の反乱)で自刃し、翌年さらにその叔父が西南戦争で戦死した後、爺の父親が屯田兵として北海道に渡ったという経緯がわかった。爺の父親は慶応生まれで、爺は五十九歳のときの子であった。

 そんな佐藤氏から、今年(平成十九年)になって思いもかけない誘いを受けた。堀部安兵衛のご子孫にお引き合わせしましょうというのだ。安兵衛は弥兵衛の子で、親子で討ち入りに参加している。

 私は約束の一時間以上も前から、ホテルのロビーで落ち着かない時間を過ごしていた。「すべてオマエに任せだ。よろしく頼む」と爺は暢気なものである。

 会ってまず、なんと挨拶したらよいものか。十年、二十年ぶりの再会ならまだしも、三百年ぶりの対面である。しかも、首を刎(は)ねた相手との再会と思うと複雑な気持ちになる。

「元禄十六年の切腹の節は、御役目とはいえ貴殿の父上の首を刎ね……どうもすいませんでした……」

 何やらおかしい。かといって「父君は、見事な最期でありました」と適当なことをいうわけにもいかない。

 そうしている間に、佐藤氏がにこやかに現れた。紹介されたのは、目の前のソファーにいた初老の男性だった。かなり前からこの男性の存在には気づいていたが、この人ではないと安心していたのだ。安兵衛の武勇伝もあって、私は三、四十代のガッチリとした人を想像していたのだ。不意打ちを食らった私は、

「あッ、どうもその節は、あの、お役目とはいえ、どうも……」

 何日も思い悩んだ米良家名代の口上は、通夜のお悔やみとなった。

「いえ、いえ、こちらこそ大変お世話になりました」

 と満面の笑みでいわれたときには、救われる思いがした。現代の安兵衛殿は、博学多才で上品な人であった。

 その後、しばらく歓談したのだが、その間も何となく落ち着かない。この目の前の人から、よろしくお願い申しますと首を差し出されたら、はたして今の私に斬れるだろうか、などという妄念が頭を掠(かす)めていたとき、

「……数年前、とうとう私もクビを斬られましてね」

 といわれ、ギョッとした。何のことはない、定年退職の話だった。こちらもいつ何どき背後からバッサリとやられかねない身、うかうかとはしていられないサラリーマンである。

 ホテルが皇居に隣接していたこともあり、記念写真を撮りましょうと、佐藤氏は私たちを江戸城松の廊下跡に案内してくれた。

 実は今回の対面、私の都合で二度も日程を変更していた。結局、二月四日に落ち着いたのだが、この二月四日こそまさに三〇四年前の介錯の日だったのである。そのあまりにもでき過ぎた偶然に、私たちは顔を見合わせた。

 その夜、爺に電話した。

「オマエはいい仕事をした。何かしてやりたいが……オマエ、さっぱり遊びに来ねえな。どうなってんだ……」

 話があらぬ方向へ進み始めた。

「オレももう八十四だ。そろそろ逝ぐどォ」

 考えてみると、忙しさにかまけて爺にはもう十年近くも会っていない。近々に参上仕(つかまつ)らねば、と改めて思った次第である。

 追記

 平成二十三年三月、北海道室蘭市に転勤になった私は、ことあるごとに札幌の爺のもとを訪ねている。

「ジジ、元気でいたか」

「イヤ、まもなくだ」

 爺、米寿を迎え、ますます盛んである。

                  平成二十三年八月  小 山 次 男

 付記

 「大叔父」(平成十三年四月)を加筆改題して「メラ爺」(平成十八年二月)とし、それをさらに加筆し改題して「介錯人の末裔」(平成二十年六月)とした。二〇〇八年版『ベスト・エッセイ集』収録時に再校正し、平成二十三年十月の『ベスト・エッセイ集』文庫化での校正に際し、さらに加筆した。