Coffee Break Essay


 『もうひとつの「介錯人の末裔」』

 (一)

 東京高輪の泉岳寺といえば、赤穂義士ゆかりの寺である。その泉岳寺の裏手に、義士切腹の地があることは、あまり知られていない。

 泉岳寺の裏を走る二本榎通りを挟んで、都営高輪一丁目住宅団地という近代的な高層アパートがある。隣に高松宮邸を擁するこの閑静な一帯が、肥後熊本藩五十四万石の細川家下屋敷のあった場所である。

 元禄十五年(一七〇二)、主君浅野内匠頭の仇を討ち、本懐を遂げた赤穂浪士一党は、大名四家に分散しお預けの身となった。大石内蔵助以下十七名は、この細川家に預けられた。

 藩主細川綱利は、討ち入り直後の浪士の引渡しに際し、総勢八七五名の家臣と十七挺の駕籠と予備駕籠五挺を用意させた。一行が屋敷に到着したのは、丑の刻(午前二時)を回っていたが、綱利は即夜の引見を行った。

 綱利は義士に対し並々ならぬ肩入れがあったようで、自ら二度も義士の助命嘆願の訴えを行っており、十七名全員を自藩に召し抱える腹積もりでいた。また御預かりの間は、自らも精進料理しか口にしないという徹底ぶりであった。

 元禄十六年二月四日午後二時、幕命を帯びた使者による切腹の申し渡しが行われ、即日執行された。

 家臣の中から介錯人を出すよう命ぜられた綱利は、

「軽き者の介錯では義士たちに対して無礼である」

 として、十七人の切腹人に対し、十七名の介錯人を選定した。大石内蔵助に対しては重臣の安場一平を当て、それ以外の者たちも小姓組から介錯人を選んだ。

 切腹終了後、「切腹の庭を清めましょうか」という家臣の伺いに、

「忠義の者どもの聖地である。清めるには及ばない。……十七人はこの屋敷の守り神である」

 といっている。細川家で浪士の接待に当たっていた堀内伝右衛門が、藩主綱利の言葉として伝えている。

 この十七名の介錯人の中に、米良市右衛門がいる。泉岳寺発行の小冊子に、今もその名が窺える。市右衛門は堀部安兵衛の父、堀部弥兵衛金丸の介錯を務めた。

「雪はれて思いを遂ぐるあした哉」

 武士(もののふ)の気概横溢する弥兵衛七十七歳の辞世である。弥兵衛は義士最年長であった。

 この米良市右衛門が、私の祖母(母方)の祖先にあたる。現在、その直系は祖母の弟、つまり大叔父米良周策が受け継いでいる。市右衛門から数えて十二代目、現在八十四歳である。

 実はこの話、昭和三十年代に初めてわかったことであった。それまで、細川家にかかわる家系であることだけはわかっていた。その判明した経緯が興味深い。

 昭和三十三年(一九五八)、私の曾祖母が亡くなった。続いて祖父が脳溢血で倒れ、その看病をしていた祖母がこれまた急死した。爺(米良周策のことを米良爺と呼んでいる)にとっては、母親と姉を相次いで亡くしたことになる。たて続けの不幸に、これは何かあるに違いないと、神憑りの婆さんの神託を仰いだ。

 お告げは、謎めいていた。

「獣を殺める者がいる。倒れている。それは壁にくっついている。だから悪いことが起きたのだ」

 何とも要領を得ないお告げに、みな頭を抱えた。家中探したが見当がつかない。そのうち、米良家に何年も開かれていない神棚があることに気がついた。

 恐る恐る開けてみると、中から真白い雌雄のキツネが一対と古文書が出てきた。古文書には何が書いてあるのか、誰も読めない。当時、町内きっての碩学であった収入役に読んでもらって右の一件が明らかになった。

 米良家には、女は神棚に触ってはいけないという家訓があり、父親が亡くなってから数十年、神棚は放置されていた。爺は、役場に勤める傍ら狩猟を行う。神棚は壁にくっついており、中から出てきたキツネは雌が倒れていた。お告げが解けた、という経緯がある。

 平成十七年(二〇〇五)、うだるような暑さの中、私はやっとの思いで「大石良雄外十六人忠烈の跡」と記された案内板を見つけ出していた。場所は、高輪の高層アパートの奥まった一画である。そこは鬱蒼とした潅木に覆われており、一見して古い屋敷の入り口の様相を呈している。私はその木陰にしばらくたたずみ、吹き出る汗をぬぐっていた。

 切腹の場所は塀で囲われ、正面には木製の門がある。その門扉の隙間から中を覗くと、大きな平石が目についた。この一画だけが周りから隔絶され、時間が静止していた。無数のセミの声が、頭上から降り注いでいた。

 三方に白い幔幕が張り巡らされ、切腹の座に敷かれた三枚の畳には木綿の大風呂敷が展べられていた。白装束に身を固めた義士の後方に、緊張の面持ちで介錯人が控えている。すでに太刀は抜かれ、切腹人の挙措に神経を研ぎ澄ましている。義士が検使に一礼し、静かに瞑目している。介錯人の刀がゆっくりと上段に到達した。義士が目を見開き、三方の切腹刀に手を伸ばした次の瞬間、稲妻のような鋭い閃光がきらめいた。

 潅木の梢の上には九月の青い空が広がり、強い残暑の陽射しが艶やかなクスの葉を照らしていた。首筋を汗が伝う。冷たい汗であった。この平石の位置が、義士切腹の座であった。

 (二)

 私は、あるきっかけで近世史家のS氏の知遇を得ていた。S氏は赤穂義士研究家である。義士忠烈の地の存在を知らされたのもS氏からであった。

 そんなS氏から、今年(平成十九年)になって思いもかけない誘いを受けた。堀部安兵衛のご子孫にお引き合わせしましょうというのだ。安兵衛は養子ではあるが弥兵衛の子で、親子で討ち入りに参加している。

 私は約束の一時間以上も前から、ホテルのロビーで落ち着かない時間を過ごしていた。「すべてオマエに任せだ。よろしく頼む」と爺は暢気なものである。

 会ってまず、なんと挨拶したらよいか、私は考えあぐねていた。五年、十年ぶりの再会ならまだしも、三百数年ぶりの対面である。しかも、首を刎ねた相手と思うと複雑な気持ちになる。

「元禄十六年の切腹の節は、御役目とはいえ貴殿の父上の首を刎ね……どうも済みませんでした……」
 どうもおかしい。かといって「父君は、見事な最期でありました」と適当なことをいうわけにもいかない。


 そうしている間に、S氏がにこやかに現れた。紹介されたのは、目の前のソファーにいた初老の男性であった。かなり前からこの男性の存在には気づいていたが、この人は違うと安心していたのだ。安兵衛の武勇伝もあってか、三、四十代のガッチリとした人を勝手にイメージしていたのである。不意打ちを食らった私は、

「あッ、どうもその節は、あの、お役目とはいえ、どうも……」

 さながら通夜のお悔やみである。

「いえ、いえ、こちらこそ大変お世話になりました」

 と満面の笑みでいわれたときには、救われる思いがした。現代の安兵衛殿は、博学多才で上品な人であった。

 その後、しばらく歓談したのだが、その間中、私はある雑念に苛まれていた。もしこの人が、どうぞまたよろしくお願いします、とおもむろに首を差し出してきたら、はたして今の私に斬れるだろうか、という妄念に近いものであった。

「……数年前、とうとう私も首を斬られましてね」

 という御子孫の言葉に我に返ると、定年退職の話であった。こちらもいつ何どき背後からバッサリとやられかねない身、うかうかとはしていられないサラリーマンであった。

 ホテルが皇居に隣接していたこともあり、記念写真を撮りましょうと、S氏は我々を江戸城松の廊下跡に案内してくれた。

 実はこの対面、私の都合で二度も日程を変更していた。結局、二月四日の日曜日に落ち着いたのだが、この二月四日こそまさに三〇四年前の介錯を行った日であった。でき過ぎた偶然に、私たちは顔を見合わせた。

 その夜、爺に電話した。

「オマエはいい仕事をした。何かしてやりたいが……。そういえばオマエ、さっぱり遊びに来ねえな。何やってんだ」

 と話があらぬ方向に進み始めた。

「オレももう八十四だ。そろそろ逝ぐどォ」

 考えてみると、忙しさにかまけて爺にはもう十年以上も会っていない。近々参上仕(つかまつ)らねば、と改めて思ったのである。

                 平成十九年十月 霜降  小 山 次 男