Coffee Break Essay



  『十二月の気分』




十二月という月は、どう頑張っても毎年慌ただしく、気ぜわしい。

ボーナスの支給に始まり、十四日の討ち入り、冬至があり、
天皇誕生日で一息ついて、二十四から二十五日にかけてのクリスマス。
また、二十五日には年末調整でどのくらい税金が戻ってくるか気になり、
年末ジャンボ宝くじも買わなければならないし、有馬記念も控えている。
その間、年賀状を書いたり、忘年会があったり、
会社には挨拶客がひっきりなしに訪ねてくる。
雑事を年内に終わらせたいという思いと、来る年への準備に忙殺される。

いよいよ押し迫ってくると大掃除にとりかかり、正月飾りの準備をして、
あっという間に大晦日になり、宝くじの夢破れ、落胆の中で正月を迎える。
何とかこの忙しさを他の月に分散させたいのだが、こればっかりはどうにもならない。

もう三月、今年も四分の一が過ぎたとか、七月になると半分が終わったと嘆きつつ、
十月には、次の年のことが気になり出す。
歳を重ねるに従い、そのスピードがますます加速してきている。
地球の自転や公転速度は何ら変化していないのだから、
変わったのはこちらの意識の方なのである。

一体、いつ頃から月日の経過速度が増したかといえば、会社に入ってからだろう。
入社当時、仕事を覚えながら、次から次ぎへと回ってくる書類をさばいてゆくので、
精一杯の毎日を送っていた。
最初の一年は、何が何やら分からぬうちに過ぎていた。
一ヶ月の間に次ぎ次ぎとおそってくる締日をこなしながら、
一日の大半を会社の机の上で過ごしてきたように思う。
季節感もヘッタクレもあったものではなく、
こんなことをしていたら、あっという間に年寄りになって死んでしまうぞ、
と危惧していた。何とかしなければと思いつつ、とうとう四十を越えた。

振り返ると、幼い頃の一ヶ月、一年というのは、実に長くゆったりとしていたように思う。
小学校一年から六年までの階段は、想像に難いほど遠く長い道程であった。
中学や高校の三年だって、密度の濃い時間であった。

笑顔の愛くるしい女の子に恋い焦がれ、悶々とした日々。
永遠に「止め!」の号令がかからないのではないか、
と思うほどグラウンドを走らされた。
毎回、徹夜に近い一夜漬けをしていた試験。
昼夜忘れてのめり込んだ読書。
十代の前半から二十代の前半にかけての十年間には、
かけがえのない時間の蓄積があった。
五年先、十年先のことを考えて、という行動は一切なかった。

今はどうかといえば、いわゆる青春時代にも劣らぬほどの濃い時間の中に身を置いている。
仕事と家庭に忙殺されているのだが、何かが、違う。決定的に――

もう四十二という気持と、まだ四十二歳という思いが、ときおり交差する。
まだ若い、とイキがってみても、「もう」の方が優勢になりつつある事実は否定できない。

 《若さとは、人生の或る期間を言うのではなく、心のひとつの持ち方を言うのだ/(略)年齢を重ねただけでは人は老いない/理想を見失ったとき初めて老いが訪れる》(サムエル・ウルマン『若さとは』)

大きく頷きつつも、怖い言葉として、残る。

本川達雄氏に『ゾウの時間、ネズミの時間』という著作がある。

時間の流れる速さは動物によって変わる。
大きい動物では時間はゆっくりと流れ、小さい動物は速い。
おのおのの動物は、体の大きさによって決まる独自の時間を持っており、
それを「生理的時間」というそうだ。

どの動物も一回呼吸する間に心臓が四回打ち、
一回打つのに要する時間は、体が大きくなるとともに、
体重の〇・二五乗に比例して長くなっていくという。
体重五トンのゾウは、心臓が一回打つ時間は二秒だが、
三十グラムのネズミではその二十分の一の時間しかかからない。
ゾウはネズミより長生きなのだが、心臓は両者とも同じ回数だけ打って死ぬ。
その回数は二十億回であり、この法則は、人間にも当てはまるという。

寿命の長さに大きな違いはあっても、
その動物がどのくらい生きたかの実感は、
全く同じなのかも知れない、と括っている。

十代の頃は、人生は長いと思っていたが、
最近では意外と終末は近かそうだと思うようになった。
どうやら年齢によって、時間経過の体感速度が違うようだ。

十二月という月は、年齢を考えてしまう月である。

去年の大晦日、「ゆく年くる年」の除夜の鐘をききながら、
どう考えてもこの音はハッピー・ニュー・イヤーという音色をしていないなと思った。
静かな祈りの音であり、ズッシリとした響きに、経てきた人生の重みを思うようになった。

カウントダウンに参加したり、友達同士集まって花火を打ち上げたり、
シャンパンで乾杯などもいいが、そんな気分にはなれなくなった。
この一年の家族の無事に感謝しつつ、くる年もまた平穏であれと願う。

やがて訪れる人生の十二月、どういうかたちで迎えるのだろうか。
願わくは、心静かに安らけく平らけく過ごしたいものだ。
すっかり年寄りめいた気持ちが擡(もた)げてくる。

十二月という月が持っている気分のせいかもしれない。
あと一週間もして新年を迎えると、ガラリと気持ちが変わるから、現金なものである。


                     平成十四年十ニ月  小 山 次 男