Coffee Break Essay



  『痛い想い出』




「男はインキン、では女は何でしょう」

「イン……マン?」

「アホか、女はカンジタや」

「えッ、感じた?」

 お笑いの掛け合いではない。私は長年、男が「インキン」なら、女性は「インマン」であろうと決めつけていた。それがあるとき、間違いであることに気がついた。調べたわけではない。ある日突然、ご神託が降りたかのように閃いたのだ。「インキン」は陰部に菌が巣食うから「陰菌」なのであり、つまり男女の性は関係ないのだ、と。「インマン」とはいかにも男性的な発想、とその発見にひとりほくそ笑んだのだった。

 それがこのたび、とんでもない勘違いであったことがわかった。たまたま「慇懃(いんぎん)」を広辞苑で調べようとしたところ、その隣にあった言葉がふと目に入った。「陰金」とある。何気なく読んで、脳天に落雷が落ちた。あの「インキン」は「陰菌」ではなく、「陰金」だったのだ。つまり考え方としては、最初のでほぼ合っていたことになる。

 ということは……慌てて調べると、女性の場合は「カンジタ症」とある。「カビ(真菌)の一種の寄生によって起こる病気」だそうだ。(カンジタ症は男性にもあるらしい)

 インキンというのは「陰金田虫の略。頑癬(がんせん)の俗称」とあり、頑癬は「白癬菌という糸状菌の寄生により生ずる皮膚の湿疹様疾患。青年男子の内股・臀部・?幹に多く、病巣は縁辺が土俵形に隆起して紅かく、中心はやや退紅して暗色を帯びる。かゆみがつよい」とある。

 ほーう、青年男子ねェ、中年には無縁なのかなと思いながら、青春のほろ苦い想い出が甦った。

 私は、高校時代を男子校の寮で過ごした。寮生が一八〇名もいるマンモス寮である。忘れもしない、二年生の夏、寮でインキンが蔓延した。原因は風呂である。巨大な風呂であったが、二時間という限られた入浴時間中、風呂場はイモ洗い状態だった。不衛生であったのだ。

 あるとき妙に股ぐらが痒くなり出した。それは、例えようのない猛烈な痒み。よく見るとその部分が蚊に刺されたように膨らんで、粉が噴いて白くなっている。何だろうと思っているうちにそれはタマに飛び火し、さらに上昇してくる気配。掻いているうちに痛みが出てきた。これ以上我慢していたら気が狂うところまできたとき、気の知れた友達に打ち明けた。それはインキンだという。この薬は効くぞと言って見せてくれたのが「ベトネベート」という軟膏であった。彼もまたインキンだった。

 さっそく意を決して近所の薬局へ行った。その薬局は大きなショッピングゼンターの中にあり、白衣を着た薬剤師が二名いた。若い男女である。化粧品も置いてあるので女性客が多い。女性の薬剤師に声をかける勇気はない。男がひとりになり、しかも店に客がいなくなるチャンスを私は店の外から窺っていた。

 やがて、その好機が訪れた。私はすかさず男性薬剤師の元に近づき、

「あの……すいません。……ベトネベートありますか」

 と咳き込むような早口で尋ねた。恥しさで気が遠くなっていた。

「えッ、ベトベト?」

「いや、ベトネベートです。軟膏です」

「ちょっとお待ちください」

 と言い、男は軟膏の棚をのんびりと捜し出した。(おい、急げ、何をしている。時間がない)サスペンスドラマのようなスリルに、心臓がガンガン肋骨を叩いている。よく見るとその男は若かった。

「あのー、見当たらないようですが、どんな症状の軟膏ですか」

 と男が言うのと同時に、若い女性客が二人、入って来るのが目に入った。

「いや、あのー……痒いンです」

 私は、仕方なく下腹部を指差した。男は、ビクッとした顔になったかと思ったら、少々お待ち下さいと調剤室に向かって行ってしまった。最悪のシナリオが頭に浮かんだ。

 男はガラス張りの調剤室の中の女性に向かって、

「あのー、すいません、いいですか」

 とモジモジしている。「何なの、どうしたの」と言う白衣の女性の声が中から聞こえる。

「あのー……、お客さんなンですけど……」

 男が私を指差した。男はアルバイトだったのだ。しかも、恥しくて女性薬剤師にきちんと説明できなかった。もどかしそうに出てきた女性薬剤師、学生服姿の私(当時、外出の際は学生服着用であった)を見るなり、満面の笑みをたたえて「どうしました」と言う。男の姿は、すでにどこにもなかった。逃げたのだ。死んでしまいたい気分になった。「インキンの薬を下さい」という度量は、当時の私にはなかった。(たぶん今も、ない)

 その若くて美しい女性を前に、どう説明したのかは覚えていない。当時の私は「下腹部」などという言葉を持ち合わせていなかった。「あそこ」とも言えない。結局、下半身を指差して痒いと言ったのだろう。何の薬か理解できた瞬間、その女性薬剤師の耳たぶが赤らんだのを見逃さなかった。

 少年の残香を多分に残した十六歳の私にとって、恥しさを通り越した痛い想い出として、今もあのときの光景が鮮烈に残っている。

 女性薬剤師の対応は、「慇懃」というよりは、とても優しく、爽やかなものだった。

 後日。「おい、オレもダメだ」と言ってきた別の友達に、その薬局を紹介してやった。ただ、男がアルバイトであることは伏せておいた。


                  平成十七年一月 小寒  小 山 次 男