Coffee Break Essay


 『忙しさを原動力に』

 

 去年(平成二十年)の夏は忙しかった。その余韻は十二月まで続いた。

 七月初旬、会社の同僚の結婚披露宴の司会を引き受けたあたりから、忙しさが始まった。十一年ぶりの司会であった。妻が精神疾患に陥ったのは十一年前のことで、以来、司会を断ってきていた。

 妻の発病により、私は掃除、洗濯、食事と家事の全てを背負っている。ひとり娘は、まだ小学二年だった。頼れる身内が近くにいない。残業も出張も転勤もできなくなった私は、会社の温情で子会社へ出向の身となった。

 今回、たまたま妻が入院中だったこともあり、思い切って司会を引き受けたのである。披露宴の司会は私の趣味でもあった。

 司会の台本の概略はそれほど時間を要せずに作成できた。だが、その台本がどうにも覚えられない。以前は通勤の途中でセリフを丸暗記していたのだが、四十八歳の記憶力は、すでに圧倒的な忘却力に凌駕されていた。刻々と本番が近づいてきて、焦りが出始めていた。そんな折、とある文学賞のエッセイ賞の受賞の通知が舞い込んだ。八月一日のことで、一週間以内に受賞の言葉と顔写真を提出せよとの添え書きがあった。披露宴の本番は八月八日である。

 なんとかその両方をやり終えた翌日、今度は私が所属している同人誌主催のエッセイ賞の下読みの依頼があり、十六日にその第一回目の原稿が届いた。原稿は、一回が五十本ほどで、六回に分かれて届く。下読みは前年から引き受けているのだが、二カ月かけて三百本弱の原稿を読まねばならない。五段階の評点を付し、コメントをつける。五名での回し読みになるので、滞(とどこお)るわけには行かない。仕事と家事の中での作業なのだが、光栄なことと無理して引き受けている。

 その下読みの最中に、文藝春秋から『〇八年版ベスト・エッセイ集』の贈呈本が到来した。昨年同人誌に発表していたエッセイが選ばれていたのである。これが三度目の収録となる。印税ではなく、掲載料がもらえる。収録されるたび、その掲載料をはるかに上回る本を購入し、お世話になっている方々に進呈している。

 妻の病気のことがあって、何年も実家に帰っていない母からのオーダーは、五十冊、追加で二十冊といった具合で連絡がある。母の場合、タダで贈呈すると、もらった相手が気を遣うというので、定価の代金をもらっている。要は売っているのである。

 本が届いた翌日の八月二十一日、必要部数を尋ねる電話を母にしたところ、母の口調がおかしいことに気づいた。ロレツが回っていないのだ。脳梗塞の症状であった。その日のうちに札幌にいる妹が、叔父(母の弟)の車で実家に戻った。翌日、その車で札幌へ行き、そのまま入院となった。

 私が見舞いのために札幌に向ったのは、二十七日である。突然行くと母の病状が悪化すると周りが心配したのだ。九年ぶりの対面であった。おりしも妻の退院予定日と重なったのだが、主治医に相談し、入院を引き延ばしてもらっての見舞いとなった。その旨を事前に母に伝えると、

「私に会いに来れるくらいなら、墓参りをし欲しい」

 という。母の強い願いをいれ、札幌の親類に千歳空港まで車で迎えに来てもらい、往復八時間の遠回りをして、面会時間終了間際に病院に入った。

 エッセイ賞の下読み作業は、北海道へ向う直前まで迷って、結局、迷惑をかけられないと考え、羽田空港から辞退の電話を入れていた。幸い母の病状は軽かった。翌日、東京へ戻った私は、エッセイの下読みを再開した。

 私の北海道行きは、妻の病状を不安定にさせたたが、九月五日には退院できた。娘は大学一年生になっていたため、夕食は適当にやっていてもなんとかなったが、妻が退院するとそうもいかなくなる。

 妻が退院した翌日、熊本の知り合いから墓碑発見の一報が舞い込んだ。私の母方は熊本藩士で、明治二十二年に屯田兵として渡道し、以来、生活の拠点を北海道に置いている。全く忘れ去られていた墓碑が、一二〇年ぶりに見つかったのだ。

 私は母方の家系をエッセイにしてそれが縁で、近世史家の協力を得、家系に関する本の執筆にとりかかっている。もう三年になるが、そんな中での墓碑の発見であった。熊本へ出向くことができない私に代わって、知遇を得ている熊本の史家が墓の調査を引き受けてくれた。墓碑の発見により、新たな事実がいくつか判明した。それを精査する作業が加わった。

 九月末にはエッセイの下読みを終え、墓碑調査に本腰を入れ始めた十月二日、突然、帯状疱疹を発症した。疲労がピークに達していたのである。十月七日に母の脳梗塞の再発防止のため、八時間にわたる血管バイパス手術が予定されていた。当然、私も行く予定だったのだが、妻への刺激を避けて断念していた。そんなことも心労の一因であった。

 三十日には、熊本の墓の永代供養を執り行ってもらった。墓碑の調査結果は、十二月にまとまり、執筆本に大幅な筆を加える結果となった。

 平成十五年に初めてエッセイが同人誌に載り、それ以降本や雑誌で活字になったエッセイが四十一点(平成二十一年三月現在)になる。同一作が別の媒体に発表されているので単純に四十一作とはいかない。そのうちの十作が昨年に集中していた。献本等を含め、昨年書いた手紙を数えてみたら、一二〇通に達していた。

 忙しさの種は、自ら蒔(ま)いたものである。だが、これが妻の闘病を支える原動力になっている。妻の発病以来、共倒れを恐れて書き始めたエッセイが、思わぬ波紋を拡げ続けている。

 

              平成二十一年三月 春分  小 山 次 男