Coffee Break Essay



 『ホームページでの出会い』




 会社のホームページにエッセイを書いて六年になる。数えると一三〇作を超えている。書き始めたころは、せいぜい十篇程度でギブアップだろうと踏んでいた。

 エッセイは誰がどこで読んでいるかわからない。それなりの覚悟で発表してきた。海外で読んでくれている私の友人もいた。恐る恐る書いていたのだが、そのうち緊張感が薄れてしまった。同人誌の公募で賞をもらったのがいけなかった。自分をコントロールしていたつもりが、調子に乗った。

 賞をもらった経緯を実見しないままエッセイにし、選考委員であった作家のS先生のことを好き勝手に書いてしまった。そのエッセイを読んだ方が、S先生ご本人へ注進におよんだ。

「私、こんなこといってないわよ」

 S先生のご自宅を訪ねた同人誌事務局の方が、先生から私の話を聞いた。後日、その話を聞き、穴に入りたい気分であった。

 思いもよらぬ出会いもあった。

 私には、大正十三年生まれの大叔父がいる。この大叔父の祖先が、赤穂浪士事件にいささかかかわっていた。

 元禄十五年、吉良邸に討ち入った四十七士は、その後大名四家に分散しお預けの身となり、翌年、切腹を仰せ付けられる。細川家にお預けとなっていた堀部弥兵衛の介錯を行ったのが米良市右衛門なる人物で、大叔父はその直系の子孫に当たる。その話をエッセイにした。

 それを読んだ東京の赤穂義士資料館(ネット上の仮想資料館)長が、熊本の近世史家津々堂(ネット名)氏にその情報を提供した。津々堂氏は「肥後細川藩拾遺」というホームページを持っており、細川家とその家臣についての研究内容を発表している。その家臣、実に二千家におよぶ。

 その津々堂氏が自身のホームページで私の捜索を呼びかけた。すると電話帳のソフトを持っているという方が現れ、札幌の米良姓の電話番号と住所の提供を受けた。津々堂氏からの手紙が、大叔父の次男のもとに届き、大叔父の目に触れた。

「うちの事情を事細かに知っている、小山次男って誰だ!」

 大叔父は驚いた。

 小心者の私は、ホームページにエッセイを掲載するにあたり、できるだけ目立たない名前を考えた。学生時代、出席番号順でゆくと私(近藤)の前にはいつも小山がいた。小山の次の男という意味で小山次男と装った。ペンネームではない。偽名である。

 騒いだ大叔父が思い当たる限りの親類に電話をかけ、最後に、実家の母のもとに連絡が入った。

「あんた、小山次男って知ってるかい」

 唐突な母の言葉に動転した私は、素直に自分のことと認めた。気恥ずかしさもあって、親兄弟はもちろん、家族にさえホームページの存在を明かしていなかった。友人でさえ、気心の知れたわずかな者だけにしか知らせていない。

 津々堂氏の問い合わせに、八十二歳の大叔父は答える気力がなかった。同居している長男も忙しさにかまけた。数ヵ月後、今度は佐藤氏から会社経由で問い合わせが舞い込んだ。かくしてこの二人との親交が始まった。

 赤穂義士資料館長のS氏は、今年三十四歳であるが、赤穂浪士の研究では他の追随を許さない方、と津々堂氏は賞賛する。この二人のホームページは、趣味やオタクと称されるものとは、明確に一線を画している。お二方とも真摯な研究者である。この二人の該博ぶりには、ただただ驚嘆するばかりである。

 S氏との出会いで、大叔父の家に伝わる古文書の内容が初めて詳らかになった。それにより、米良家三五〇年、十六代にわたる系譜の作成が実現した。津々堂氏には、米良家の古文書に登場する二十数名の熊本藩士についての詳細を教えて頂いた。この二人は、わが家系のかけがえのない恩人となった。

 さらに、もうひと方。

 ある日、偶然にもフェリシアーノおじさんという方のホームページに行き当たった。大きな文字ばかりで飾り気のないホームページである。不思議に思いながら読み進め、疑念が解けた。

 この方は、五十九歳の日本人で、盲の方だった。二十二歳の秋に突然の眼底出血に襲われ、四〇〇日の入院を経、全盲で退院。入院中、デビューしたオーヤン・フィーフィーや小柳ルミ子の姿を記憶に留めているとのこと。浅間山荘事件のころである。

 氏のホームページに、私のエッセイがリンクされていた。

 何故、目が見えないのにパソコンができるのか。しかもホームページを作っている。私などは、ホームページも作れず、検索もままならない。どうしてそんなことができるのだろうかという衝動にかられ、フェリシアーノ氏に問いかけた。

 返事はすぐにきた。勝手にホームページをリンクしたお詫びから始まっていた。

貴殿のHPをパラム化するにあたり、IEで貴HPにアクセスを試みたのですが、どうしても音声化できませんでした。Google検索で連絡の手段を探したものの手がかりがなく、どなたか視力のある方に頼めばよかったと……」

 私は、興味本位でメールをしてしまったことに後悔した。黙って静観していればよかった。氏の人柄がにじみ出る文章に、罪悪感を抱いたのである。

「ウエブサイトのコンテンツをIEを使用して読む場合、私たち盲人には使い勝手が良くありません。そこで、盲人用に開発されたアプリを使用しているのですが、そのアプリに使うパラメータファィルを作成し、私のHPに登録させていただいているのです……」

 IE、アプリ、パラメータファイル……何のことかさっぱりわからない。お手上げである。

 さらに氏のメールは、自身のホームページの解説に及ぶ。

NEWS to Speechはフリーウエアで、盲人用のブラウザで、音声で文字データを出力します。そのブラウザに「パラムファィル」と呼ばれる小さなテキストファィルをプラスしますと、目的の記事に簡単にアクセスできるようになります。つまり……」

 氏のコンピュータ知識には舌を巻く。とてつもない人であった。

 何より感心するのは、氏のメールには誤字がない。カーソルを文字に合わせると音声ソフトにより読み上げが始まり、「例えば柴田」と漢字に変換したい場合、「此れの下に木、たんぼの田」と読み上げられ、大変賑やかです、という。さらに「詳細読み上げモード」などいくつかの読み上げ方法があり、それらを駆使して文章を作成しているという。

 氏は私に理解を促そうと言葉を尽くし、懇切丁寧に解説してくれるのだが、どうにもついて行けない。いくら音声が読み上げてくれたとしても……という私の疑問は払拭できなかった。フェリシアーノ氏が全くの闇の中で作業を行っている、それが私の理解を超えるのである。

 フェリシアーノ氏との出会いで、多くの盲人の方々がネット上でコミュニケーションをとっていることがわかった。その中には、自身でホームページを運営している人もいる。 フェリシアーノ氏は、私のエッセイを九州の知人から紹介され、自身のホームページで視聴覚障害者向けに公開してくれていた。

 現在、私のエッセイには、月間約五、〇〇〇件を超えるアクセスがある。大半がオチャラケのエッセイである。バカに磨きをかけなければ、と心引き締めた次第である。

 さて、次はどんな出会いがある。

                 平成十八年五月 小満  小 山 次 男