Coffee Break Essay




 
「保険の呪縛」


 就職したら生命保険に入る、そういうものだと思っていた。だから、なんの抵抗もなく、また、よくわからないまま終身保障の生命保険に加入した。

 会社の独身寮の先輩が、入社早々に自分が加入している保険のオバちゃんを紹介してくれたのだ。というか、新入員の入社を誰よりも楽しみに、首を長くして、いや、手ぐすねを引いて待っているのが、保険のオバちゃんたちである。

「今年は、何人、入ってくるの」

「また、お願いね」

 保険のオバちゃんたちによる新入社員の争奪戦はすさまじい。池に餌(えさ)を投げ入れたときのコイだ。

 私の会社は石油製品販売会社で、最初の一年はガソリンスタンドでの勤務だった。当時、東京の小金井にあった独身寮から、片道一時間五十分の通勤で、埼玉県川越市まで通っていた。そこに車で現れたのが、息を呑むほどの美貌を持った保険のオバちゃんだった。いや、オバちゃんではない。当時の高尾さんは、三十代に届くかどうかの年齢だったはずだ。わざわざ東京の自由が丘からやってきたのだ。

 私は仕事を抜け出し、高尾さんの運転する車に乗って近所のファミレスで保険の説明を受けた。高尾さんは黄緑を基調とし、そこに薄ピンクや赤や青の大きな水玉が配されたスーツを着ていた。それがスーツだったかどうか、三十年以上も前の記憶は分厚いベールに包まれていて、判然としない。だが、その色彩と高尾さんの肌の白さと口紅の赤が、色褪せずに脳裏に焼き付いている。

 ファミレスに向う車の助手席で、私は香水の妖艶な香りに酩酊(めいてい)を覚えていた。だから、その後に受けた説明も、魔法にかけられたような状態であり、幻惑の中で仮契約を結んでいた。

 死んだら二五〇〇万円、不慮の事故死だと倍の五〇〇〇万円もらえる。そんなにたくさんかと一瞬思ったが、死んでしまってはどうにもならない。死んだ直後に十億円の宝くじが当たったのと同じだ。将来の結婚を見据えての保険加入である。残される妻子のことを考え、まだ彼女すらいない独身のころから保険に加入する。若いうちに入ると、月々の掛け金が安くなる。潤沢(じゅんたく)なお金があるならば、生命保険に加入する必要などない。保険会社は、貧乏人の命を手玉に、人間の弱みにグイグイとつけ込んでくる。しかも疾病特約を抱き合わせ、「病気になったらお金が出る」と耳元でささやく。

 その後三カ月で、私は事務職に配置転換となった。配属されたガソリンスタンドが、老朽化と不採算のため閉鎖されたのだ。新しい事務所は東京の日本橋だった。

 個人情報保護法などない一九八三年当時、昼休みを告げるチャイムとともに、保険のオバちゃんたちが事務所にドッとなだれ込んでくる。こちらが食事をしていようがいまいが関係ない。アンケート地獄が待っていた。そんな中にときおり高尾さんの姿もあった。そのころ高尾さんはすでに離婚していて、娘さんを一人養育していた。ずっと後になってから知ったことである。別に、そんなことを事前に知っていたとしても、どうにかなったわけではないのだが。

 やがて高尾さんの姿を見ることがなくなった。高尾さんの営業所が遠かったのと、それとは別な大人の事情があったようだ。

 やがて私は結婚し、私の保険に妻を入れた。父がすでに亡くなっていたので、死亡保険金の受取人を母から妻へ変更した。「愛妻型」というその保険の特約名称に、若い妻は喜色を浮かべた。間もなくその保険に娘も加わった。

 結婚八年目、妻が精神疾患に陥った。それから妻が家を出て行くまでの十二年半の間に、妻は七回の入退院を繰り返した。三ヵ月の入院や半年を超える入院もあったので、入院保障の恩恵は十分に受けた。生命保険に助けられた。

 保険金の請求で対応してくれたのは、いつも高尾さんだった。懐かしい声を聞きながら、まだいたのか、ということに驚いた。七回の入退院の全てにかかわってくれながら、彼女自身、私の境遇に言葉をなくしていた。

 妻と離婚した翌二〇一一年、私は北海道に転勤になった。引っ越す前に住所変更の手続きで、高尾さんに連絡をした。すると書類を持ってわざわざ会社を訪ねて来てくれた。二十五年ぶりの再会だった。

 高尾さんも六十歳を過ぎ、若いころのような美しさは失せていた。だが、それなりの美貌を保っていた。高尾さん自身がんを患い、保険に助けられたという話を聞いた。久闊(きゅうかつ)を除すというと大袈裟かも知れないが、そんな懐かしい思いに包まれていた。会社の応接室でお互いをまじまじと見合いながら、二人の間に流れた歳月を思っていた。

 妻が家を出て行き離婚したことで、保険の受取人は娘に変わった。その娘が昨年結婚したのを機に、大幅な保険の見直しを行った。もう高額な死亡保険金がいらなくなったのだ。というか、私の定年が見えてきたのだ。定年退職は六十四歳なのだが、その前に役職定年を迎える。月々の無駄な保険料を削らなければならない。

 死亡時の受取保険金をゼロにして、入院初日から保険金が出る医療保険に切り替えてもらった。葬式代も不要と断った。これまでの配当金も含めた解約金を取り崩すことで、月々の保険料を安くした。それでも月額一万円弱である。

 古いパンフレットを見ると、保険加入当時の八十歳での返戻想定額は一七五〇万円とある。しかし、今回五十五歳での解約金は二百万円弱だった。高金利時代の想定である。時代が変わった。私が新たに転換した保険は、「八十歳払い込み済み」である。つまり、八十歳まで保険料を払い続けることになる。だが、私が八十歳まで生きるとは到底考えられない。だから私は、生涯保険料を払い続けるに等しいことになる。

 これまで私は保険会社に七百万円近いお金を払い込んできた。そしてこれからさらに二六〇万円ほど支払う。解約分の取り崩し金を含めたら、軽く一千万円を超える。八十歳で私が保険会社から受け取る保険金はゼロだ。私は二十三歳から五十七年かけて総額九六〇万円を支払い、安心を買ったのだ。いや、まだまだ買い続けるのだ。それが「保険」だ。死ぬまでまとわりついてくる。「たちの悪いストーカー」という言葉が頭をかすめる。そしてときおり耳元でのささやきが聞こえる。「これだけ入っていれば、安心なんだから」と。

 私が加入している保険は生命保険だけではない。がん保険や損害保険にも入っている。もちろん自動車保険にも。子供が生まれてからは学資保険にも入っていた。給与明細を眺めながら、オレは保険料を払うために働いているのではないか、そんな疑念が脳裏をかすめ、何度、大きな溜息をついてきたことか。

 どこの保険会社も立派な本社ビルを持っている。そびえ立つ高層ビルを眺めながら、「このビルを建てるために、カネ払ってたのかよ」と、ついそんな悪態をついてしまう。そんなこともあって、保険の呪縛から少しでも解き放たれたくて、今回、思い切って保険を見直した。

 はたして今回の保険の転換も、正しい判断だったのかと問われると、どことなく心もとない。そんな話を友人にすると、

「お前、再婚したらどうすんの。嫁さん、保険金もらえないんだ」

 虚を衝かれ、思わず天を仰いだ。


               平成二十八年四月  小 山 次 男