Coffee Break Essay




 「ひたすら書く」


 石油ストーブのファンが回りだした。朝六時にセットしたタイマーが起動したのだ。いつの間にかファンの音が、一日の始まりを告げる合図となっている。

 だが私は、もう一時間以上も前から目覚めていた。一度起きて小便をして、再び布団に潜り込む。眠いのだが眠られず、温まりすぎた布団の中で輾転反側(てんてんはんそく)を繰り返す。

 酒を飲んで寝るせいもあり、睡眠が浅い。いわゆる「早朝覚醒」とまではいかないのだが、五時間を切る睡眠で毎朝目が覚める。起きた瞬間からひどく疲れている。身体を動かすのも億劫なほど。スッキリとした爽やかな朝を、もう何年も迎えていない。

 日中は強いカフェインで凌いでいるが、ときおり耐え難い眠気に襲われる。その睡魔は、私の気力を削ぎ落とし、日常生活に少なからぬ支障をきたしている。だが、夕食を済ませ、風呂に入って一段落してパソコンに向かうと、いつの間にか眠気が消えている。

 真っ白いディスプレイを文字で埋めていく。興に乗ると時間を忘れる。午後十一時を回り、早く眠らなければと、酒を飲む。それでもまだ文章を打っている。気づくと日付が変わっている。ハッとして、パソコンを閉じる。深酒は、翌日に残る。四十代までは、午前一時を過ぎても平気だったが、今はダメだ。

 どこで読んだのかは記憶にないが、次のような一文を目にしたことがある。

「自宅の書斎でグラスに注いだ酒を口にする。軽い酔いが体を巡るころ、パソコンに向かう。経営のことや日常のすべてが遠くなり、回りの音が消える。自分の中に沈殿している書きたいこと≠ェ浮かんでくる。『今回はこのテーマで書こう』。指が自然にキーをたたき、文章を紡ぐ。気がつくと二、三時間はあっという間に過ぎている」

 会社経営者で『〇一年版ベスト・エッセイ集』(文藝春秋)に収録された「母のキャラメル」が表題作にもなった西尾威智朗氏の文章である。

 理想的な執筆情景だが、現実はこんなきれいごとにはならない。真っ白なディスプレイをじっと見つめる。指がピクリとも動かない。業を煮やして酒の力を借りるが、酒量だけが進む。元来、酒には弱い(女にも弱いが)。顔が真っ赤になって、心臓が胸骨を叩きだす。そうなると作文が進まなくなり、そこでお仕舞となる。興が乗っているときは、酒が潤滑剤となり、ますます文章が進む。まるで快進撃といった様相を呈する。だが、そんなものに限って翌日読み返すと、文章が暴走している。半端ではないほど、常軌を逸脱しているのだ。

 毎晩、毎晩、パソコンに向かい、文字を打つ。ひたすら打つ。まるで修行でもしているように。夜のひと時をこんなふうに過ごすようになって十四年になる。何かに突き動かされるように、ただ書く。書いては直し、付け加えては削り、そんな作業を延々と続ける。時には十年も前に書いたものをひっぱり出してきては、書き直している。そんなふうにして書き溜めた作品は、すでに二百本を超えた。それもまたパソコンできっちりと管理している。五十音順に並べ替え、作成年月、最終校正日、贈呈者名、露出媒体などの情報を付加している。

 私が文章を書き始めたのは、四十歳からである。きっかけは妻の病気にあった。二十九歳を目前にした妻が、精神疾患を発病した。そのとき私は三十八歳で、ひとり娘は小学二年生だった。

 妻の病気は、境界例のパーソナリティー障害で、双極性障害U型という躁うつ病のうつが強く出るタイプの病気を伴っていた。医師からは重症と告げられた。妻は重いうつと妄想から、自傷行為と、私への暴力を繰り返した。包丁を突き付けられ、もうダメだと死を覚悟したことも何度かある。

 夜中に幾度、病院へ運んだことか。救急車やパトカー、消防車まで勢ぞろいする。過量服薬をし、二階で寝てしまった妻を階下に下ろすのに布担架が必要で、そのために消防車が来る。そういう決まりだという。一一九番へ電話した際、事件性が疑われるとの判断で、消防から通報を受けたパトカーが来る。おまけに近所の交番からは、自転車に乗った警察官までが。大騒ぎである。

 怖くなって泣き出してしまった幼い娘を、若い警察官がなだめてくれていた。

「ビックリしたね、いっぱい人が来て。大丈夫だよ」

 そんなことを言いながら、しゃがみこんで娘の頭をなで、背中をさすっている。同じ年頃の子を持っているのだろうか、礼を言うと警察官の目にうっすらと涙が浮かんでいた。

「何かあったら遠慮せず通報ください。できる限りのことはしますから」

 誰もが我が家の境遇に同情的だった。病院までついてきた刑事が、申し訳なさそうに頭を下げ調書を取る。そんなことを何度、繰り返してきたことか。

 このままでは間違いなく共倒れになる。そんな危機感から私は書くことを始めた。書きたいから書き始めたのではない。どうしても書かざるを得ない、という状況に追い込まれたのだ。書くことによって私は現実を受け容れ、同時に、現実から逃げた。これが、私の書く作業の始まりだった。

 そうして書いたものが次第に溜まってきた。そんなある日、果たして私の書いているものが、世間一般に通用するものなのだろうか、という疑問がわき出した。そのまま書き続けろ、と背中を押してもらいたい、そんな思いから公募に応募した。

 そこでいくつかのエッセイ賞をもらった。同人誌に所属して添削指導を受け、プロの作家から講評をもらう機会を得た。講評は今も続けてもらっている。そんな成果があってか、前述の『ベスト・エッセイ集』には、これまでに五度、収録された。信じがたいことである。こういうのを「不幸中の幸い」と言っていいのかどうか。

 こんな人生を歩むことになるとは、夢にも思っていなかった。妻が病を得なければ、私は普通のサラリーマンとして過ごしていたに違いない。

 十二年半の闘病生活の末、妻は同じく入退院を繰り返す同類の病気の男性のもとに走った。緩めた私の脇の下を、すり抜けるようにして出て行った。私も娘も十分に闘った。その思いは、妻も同じだったろう。

 三年前、私は長く住み慣れた東京を離れ、北海道に戻った。サラリーマン生活のかたわら、所属している同人誌会員の添削指導に携わっている。書くことをやめたわけではない。他人の文章に筆を入れながら、自分自身の書くことへの糧になることを期待している。

 これからも、ただひたすら書き続けたいと思っている。

    
                 平成二十六年六月  小 山 次 男