Coffee Break Essay



 『平成生まれの子供たち』




 先日、小学校の授業参観へ行った。今回から授業参観の期間が一週間になった。好きなときに来て、興味のある学年の授業を見て下さいという。随分と学校も開けたものだなあと感心した。

 娘はこの四月、五年生になった。練馬区の公立小学校に通っている。練馬区は、昨年、区内の全ての小中学校にパソコンを完備した。少子化が進んでいるからできたことである。

 運良くパソコンを使った授業を見ることができた。娘の話からある程度の授業イメージはできていたのだが、実際に見て驚いた。まず教室に入って度肝を抜かれた。会社にも数少ない最新の液晶デスク・トップ型パソコンが、教室の壁に沿って並んでいた。生徒は、その教室に続く別室で靴を脱ぎ、絨毯が敷かれた教室に入る。教室には黒板がない。そのかわり、先生のパソコンに接続された映写機とスクリーンがあり、生徒達は先生に背を向けた形で壁際のパソコンに向かう。パソコンは、ひとりに一台。なにせひとクラス二十四、五人しかいない。

 多くの小学校は、ベビーブームの到来に合わせ、昭和四十年代に造られた。その余った教室を活用し、パソコン室ができたわけだ。ちなみに教室の有効活用として、ランチルームなるものがある。給食を食べる部屋なのだが、和食用と洋食用の二部屋があり、給食のメニューに合わせて、使い分けているとのこと。

 子供達は、椅子に座るや否や、我先にとパソコンの電源を入れる。基本ソフトはもちろんウィンドウズの最新バージョンであるである。ディスプレイ上のアイコンを次々にクリックしてゆく。マイコンピュータ、五年生、算数とか国語などの教科、自分の名前の順である。生徒ひとりひとりがパソコン上に、自分の領域を持っている。先生も同じ手順でファイルを開いてゆくのだが、その様子がスクリーンに映し出されてゆく。分からなくなった子は、それを見る。最終的に子供が表示した画面は、ワード二〇〇〇。現在、私が苦労しながら、何とか仕事に使っているものである。三十歳も年下の小学生がそれをやっているのだ。しかも、各自の机の横には、ローマ字一覧表が置いてある。全員ローマ字入力なのである。

 私がみたのは国語の授業で、子供達は嬉しそうに詩をつくりだした。ただ文字を打つだけではなく、画像も挿入してゆく。単なる詩をつくる授業では、こうも嬉々としたものにはならないだろう。国語の授業で、楽しく作文や詩をつくるなど経験したことがない。苦痛の時間以外の何ものでもなかった。

 だが私は、釈然としないものを感じていた。国語の授業である。しかも詩をつくる。作詩作業とは、鉛筆を舐め舐め考え、心像にきらめいた言葉をつづってゆくものではないか。したためる≠烽フだろう。キーボードから拾い出したローマ字を、日本語に変換していったところで、琴線に触れるような詩ができるのだろうか。

 英語やフランス語と違って日本語は、単なる記号の組み合わせではない。日本語には古来より言葉に魂が宿っている。言霊信仰があるではないか。神主の祝詞がいい例だ。我々は、無意識にそういう世界に生きている。日本人にとって肉筆というのは、特別な意味がある。そこに書き手の心を視るからだ。もし神主がパソコンで打った祝詞をあげたなら、ありがた味がないどころか、怒り出す人さえ出て来かねない。日本語とはそういうものである。

 たまたま今回の国語の授業を、パソコンでやったに過ぎない。自分のイメージする小学校の授業と、あまりにもかけ離れてしまっていることに、戸惑ってしまったのだ。

 技術革新は、想像を超える速度で、急速に浸透しつつある。技術というものは、大人が習得し子供である次世代へ伝える、というのが常識であった。人類誕生以来の基本的な伝承形態である。ここ数年のパソコンの急激な普及が、その常識を覆している。世代に関係なく、全てのひとが一斉にパソコンを使い始めた。お絵かきを楽しむ子供、勉強をする学生、買い物をする人、TVを見る人、音楽を聴く人、商売をする人、用途は様々である。しかもやり出せば面白い。

 私も文章を書くのは、紙よりもディスプレイ上で入力した方が、格段に楽である。何よりも校正が簡単だ。もっとも、私の場合、字が汚く自分で書いた文字すら読めないことがしばしばある。

 娘は幼いころ、平仮名が読めるようになった段階で、ワープロのキーボードで文章を作って遊んでいた。今の子は書くよりも先に、文章を打つことが出きるようになる。平仮名すら書けないが、読めるからキーを押す。すると文章ができる。こんなおもしろいことはない。パソコンは今や、子供の格好の遊び道具なのである。

「あと数年もすればインターネットが入り、先生とのやりとりがメールで行えるようになります。授業の幅が飛躍的に広がるでしょう。恥ずかしながら私は、パソコンを使えませんが」

 という校長の話。

 そういえば先日、娘がかつて通っていた幼稚園の同窓会の送り迎えをやった。同窓会は、小学校を卒業するまで、毎年一回行われる。子供の少ないこの時代、いかに兄弟達を自分の幼稚園に取り込むか、涙ぐましいばかりの幼稚園の努力である。帰り際に娘の元担任が、子供たちとメールアドレスの交換をしていた。

「これからメールでお話しできるね」と嬉しそうであった。

 私が昭和五十八年に入社したとき、事務所で算盤ができないのは私ひとりであった。これは大変だとまわりが騒いだ。家に帰ってから毎晩、算盤の独習をした。当時、算盤ができない≠ヘ、そのまま仕事ができない≠意味していた。翌年、会社に二台のワープロが入った。我社、OA機器の第一号である。もちろんファクシミリやコピー機はあった。五十名ほどの社員に二台のワープロである。今では笑い話だが、当時、ワープロは高価なもので、大英断の末の導入だった。

 私を含めた数名の若手がワープロの講習会を受けに行き、あっという間に事務所にワープロが普及した。あらゆる文書がワープロに置き換えられ、仕事の効率が格段に向上した。そのうち、稟議書や現金出納帳をワープロ打ちしようとして、待ったがかかった。これらの書類は、精神を集中し、気合いを入れて書くものだといわれ、ワープロ打ちを認められなかったのだ。

 三年前にパソコンが導入された。インターネット、電子メールと使い勝手は広がるばかり。今ではパソコンがなければ、全く仕事にならない。ひとりに一台が常識である。かつて算盤ができずに大騒ぎをした上司が、今度はパソコンを前に青ざめている。すっかり立場が逆転してしまった。

 インターネットの普及は、仕事の仕方を激変させつつある。文書の回覧はメールで行われ、稟議の決済も決裁者が出張していても出先から行うようになり、会社の意志決定が格段に早まった。業務報告も営業レポートも全てメールでの回覧になるだろうし、もちろんオーダーもメールで行われる。今日会社を休むという連絡もメールになるだろうし、酒への誘いにもメールが活躍しそうだ。パソコンはもはや道具ではなく、企業にとって不可欠な戦略兵器となりつつある。これが二十一世紀ということなのか、と思い知らされた。

 五年生の娘は、平成元年生まれである。平成元年の早生まれが、六年生の四分の一を占めている。つまり、昭和生まれの小学生が来年には完全にいなくなる。彼ら平成軍団は、あと七年ほどで社会に出始める。二十一世紀という時代の容貌を垣間見る思いがした。

 情報技術(IT)革命というものが、知らぬ間に背後に忍び寄っている。ITは、人々のライフスタイルさえ一変させる威力で、我々が常識だと信じてきたものを覆そうとしている。

 降る雪や 明治は遠くなりにけり

 とは中村草田男が昭和の初め、遠く過ぎ去った明治への懐古を詠んだものである。この分では、我々の昭和は恐ろしいスピードで遠ざかってしまうだろう。句作などしているゆとりすらないかも知れない。

                    平成十二年六月   小 山 次 男

 付記

 平成十八年三月加筆