Coffee　Break　Essay



　　　『平成の朝』



（一）

　昭和六十四年一月七日、「天皇陛下崩御」というニュースが日本中を駆け巡った日、私にとってもまた、忘れ難い一日となってしまった。
　まだ正月気分が抜けきらないこの日の朝、いつものように会社に着くと、正面玄関の門松が取り払われ、日の丸の半旗が掲げられていた。それで昭和天皇の崩御を知った。来るべき時がとうとう来たかと思った。
　この日は土曜で半ドン。午後に会社を引けてから結婚前の妻と待ち合わせ、まっすぐに皇居へ向かった。田舎者のヤジウマ根性である。
　記帳に向かう人々の列が、坂下門から二重橋にかけて途切れなく続いている。警備にあたる警官と、各国報道関係者のカメラの放列で、目も眩むばかりの光景であった。
　記帳後、私たちはそのまま銀座へ向かった。いつもなら有楽町あたりから、まばゆい光に満ちた街並みが、人影もまばらにひっそりとしている。ネオンは全て消され、デパートのショーウィンドウには、「奉悼」と書かれた張り紙が目についた。その傍らで、どのマネキンも喪服姿だったのが印象的だった。
　私たちは早々に切り上げてアパートに帰った。テレビはどの局も、ＣＭ抜きで朝から追悼番組一色である。今日が「昭和」最後の日。画面に映し出される遠く過ぎ去った映像を、感慨深く眺めていた。
　そろそろ寝なければと思いながらも、なかなかテレビのスイッチを切れないで、蒲団の中にいた。午前一時を少し回ったころ、外からの女性の悲鳴が、感傷的な気分を吹き飛ばした。夫婦喧嘩か、はたまた男女のもつれか、それにしてもこんな時、こんな時間に何事かと思いつつ窓を開け、声のありかを探す。見上げると向いのマンションの窓明かりの中で、ひとがもつれ合うような影が見えた。その直後、ベランダ伝いに逃げてゆく男の姿が。
　事件だ！　と直感し、「あそこだ、そこにいる」とその逃げる男を指差し、騒ぎを聞きつけて外に出できた人々に向って叫んでいた。私の部屋は二階、階下の人たちからは、逃げる男が死角になって見えない。ちょっと行ってくる、といって私は部屋を飛び出し、向いのマンションの階段を駆け上った。そこは三階建てのワンルーム高級マンションで、三階は女性専用であった。
　悲鳴が聞こえた女性の部屋の前に数人が集まり、戸を叩いたが、なかなか出てこない。血まみれの女が倒れているのではないないだろうか、という戦慄が走った。しばらく間があってドアが開くと、髪の毛をビッショリと濡らした若い女性が、震えながら蹲（うずくま）っている。濡れたＴシャツの裾から露わに出ている太腿を見て、ただ事ではないと思った。その女性の身体全体が波打つように震えていた。だいじょうぶですか、という問いかけにも応えられない状況。
　その場は居合わせた別の女性にまかせ、我々数人の男は、犯人を探し始めた。そのマンション、三階部分がひと回り小さな造りで外の通路がコの字型になり、居住部分を取り囲んでいる。女性の部屋はその一番端にあった。犯人はすでに遠くへ走り去ったものと誰もが考えていた。
「ここは随分と暗いですね。いるとすればこんなところでしょうか。・・・ちょっと見てきます」
　女性の部屋とは反対側の、竹林をもつ大きな家に面した側の暗がりへ、ひとりの若者が入って行った。その直後、「いたー！　誰か・・・そこにいる」と叫びながらその若者が血相を変えて戻ってきた。駆け寄った我々の前に、黒っぽい服装の男が放心の態でフラフラと出てきた。ギョッとした。逃げ切れなかった男が潜んでいたのだ。
　出てきたところが階下に繋がる階段になっている。男はいきなり機敏な動作で逃げようと試みた。私たちは申し合わせたように無言のまま一斉に飛びかかり、男を押し倒した。ひとりは手、もうひとりは足、という具合に分散して押さえたが、それでも暴れ方が尋常ではない。
　私は、ドアから顔を出している人たちに向って、「ガムテープかヒモ、ありませんか」と叫んだ。七、八軒ちかくあったドアから、恐る恐る顔が覗いている。呆れたことに女性専用階にもかかわらず、ドアから覗く顔は全員パジャマ姿の男女。しかも、誰も出てこない。土曜日の夜とはいえ、このような時局に何たることかと憤（いきどお）ったが、人のことは言えた義理ではなかった。
　男はしばらく暴れていたが、観念したのかそのうちにおとなしくなった。中年の変質者を予想していたが、よく見ると若い。こいつの人生はこれからどうなるのだ。男であるがゆえの同情が、一瞬頭を掠（かす）めた。程なくやってきた警察官にその男を引き渡し、私たちはその場を離れた。


（二）

　どんな事件だったのだろうか、よく分からないまま一段落して部屋に戻ると、警察官がメガホンで叫び出した。
「こちらは高井戸警察署です。・・・第一発見者の方はおりますか」
　私は自分かも知れないと思った瞬間、勢いよく窓を開けて手を上げていた。お手間はかけませんので、署までご同行願いたいという誘いに、すぐ帰ってくるからと妻をおいてパトカーに乗ってしまったのだ。階下では五、六台のパトカーと、数十人の警察関係者が犇（ひしめ）いていた。
　私が警察署に到着すると、時を同じくして別のパトカーで、もうひとりの若者が入って来た。暗がりの中に入って行ったあの若者である。彼は、被害者女性と同じマンションの階下の住人であった。私たちは、警察署の廊下で長い時間待たされた。通りがかった中年の刑事が「もう少し待っていて下さい」とタバコを差し出してくれた。何も持って来ていなかったので、ありがたく頂く。若者は、「ボク、ダメなンです」と言って断っていた。私がタバコを吸う傍らで、「いいですねタバコ吸えて。・・・ボク、十九なンです」と情けない顔をしている。いくら何でも警察署内で吸うわけにはいかない。
　夜中ということもあってか、調書の作成は個室ではなく、警察署の通常の空いている机で行なわれた。
「・・・どうして彼を犯人だと思ったのですか」
　時系列にそって調書を取られながら、そう聞かれて面食らった。理屈ぬきで犯人と直感したから、というのはダメなのだ。すぐ隣では、例の若者が同じように聞かれて困っている。お互いの声に耳をすませながら、話しが食い違わないようにするのに苦労した。
　警察官同士の話を総合すると、次のような事件であった。
　犯人は、近所の独身寮に住む十九歳の大手証券会社社員。会社帰りの女性のあとをつけ、部屋を突き止めて一旦、帰宅。着替えて再び女性のマンションへ向かった。三階の外通路から柵を乗り越え、女性の部屋のベランダに身を潜める。女性が風呂に入ったのを確認して、カギのかかっていなかった窓から部屋に侵入し、自分も裸になり風呂に入って行った。女性が暴れたため、脱衣籠にあったパンティーストッキングで首を絞めようとしたが、女性の抵抗が予想以上に大きく、失敗。諦めて逃げた、といったものであった。
　女性は、まさか三階の窓から男が入って来るとは思ってもいなかったろうし、しかもその男がスッポンポン。ビックリしたなんてものじゃなかっただろう。裸どうしで格闘したのだから、たいしたものである。男もかなり慌てた様子。現場から引き上げて来た刑事の手には、遺留品の入ったビニール袋。その中には男のパンツも入っていた。慌てふためいた男は、ノーパンで逃げ出したのだ。しかも、手のヒラを女性に深く噛まれていた。
　現場がまだ騒然としていた時、パトカーに確保された男の傍らにいた警官が、被害者の元から戻ってきた別の警官に、「面通ししますか」（被害者の女性に男を確認させる）と尋ねたのに対し、「いや、いらない。手を噛まれているから確認してくれ」という会話を耳にした。警官がその男の手をとったところ、ビール瓶の蓋を数倍大きくしたような鮮やかな歯型がついていた。二人の警官がそれを確認し、時計を見て何か言ったことで、その男が正式の容疑者であることが確定したようだった。
　調書の作成には、思いのほか時間がかかった。一段落したときには、すでに空が白み始めていた。警察官も我々も疲労困憊の態。まさか徹夜になろうとは夢にも思っていなかった。すぐ帰ってくるから、と置き去りにした妻のことが気がかりであったが、調書の中でひとり人暮らしであることを話している手前、そんな素振りも見せられない。
　「ところで君、あそこの家賃はいくらなンだ」、と寝不足とニコチン切れの禁断症状で青白い顔をしている若者に、中年警官が尋ねた。八万四千円という答えに、警官は色をなした。「親の脛、齧（かじ）って予備校に行って、八万四千円か。食費と小遣いを入れたら、十万じゃきかないな。オイオイ、いい身分だな・・・」と説教めいた話しが始まり、若者はますます小さくなっている。受験を間近に控えた彼にとっては、踏んだり蹴ったりの一夜となった。
　警察署の玄関を出ると、外はいつの間にか雨が降り出していた。白む空を眺めながら、平成の朝だと思った。木々の冬芽をなごますような優しい雨の中、猛スピードのパトカーに乗って家路についた。


（三）

　私のアパートは、古い木造モルタルの一軒屋を改造したもので、築年数は相当なものであった。隣りとの仕切りは襖のみ。四畳半、共同トイレの風呂なしで、近くには神田川が流れており、フォークソングの『神田川』を地で行っていた。隣りの住人は、休日のたびに原宿の歩行者天国で歌う自称ミュージシャンと、築地市場でアルバイトしながら、シナリオライターを目指す若者がいた。シナリオ君は、家賃滞納の常習者である。二人ともたまたま九州出身で、夢を抱いて東京に出て来ていた。そんなところに住むサラリーマンの私は、異物であり、場違いな存在であった。
　二階へは、朽ちかけた鉄の外階段を伝って上がる。静かに上がらなければ、建物全体が揺れるという代物。渋谷、新宿ともに、十五分で行ける地の利。何よりも二万二千円という家賃に惹きつけられ、夜下見し、その場で即決した。時はまさにバブル絶頂期、当時の私は、そのアパートを「杉並の奇跡」と自負していた。
　かくして、平成元年初日、私はパトカーで堂々たる朝帰り。妻を起こさぬように静かに階段を上がり、そっと襖を開けると、蒲団の隙間からわずかに出ている妻の黒い瞳にぶつかった。
「怖くて眠れなかったよー。おそーい」
　と、震えた声。アパートに戻ったのは午前六時半を過ぎていたので、妻は、事件発生から五時間近くも蒲団の中で、延々と私を待っていたのだ。今なら飛びかかってきて張り倒されるところ。当時は、甘い恋人時代であった。（あー、あの妻はどこへ行った）
　かくして平成元年初日の朝、私たちは、死んだように眠った。と言いたいところだが、扉を叩く音で起こされた。時計を見ると午前九時。例の女性が警察に教えて貰ったのだろう、ご丁寧にもお礼の挨拶に来たのだ。扉を開けるとすぐに蒲団がある。妻は蒲団に潜り、私は蒲団から半身を出した寝ぼけ顔。何を話したかも覚えていない。彼女は、今まで警察にいたンだ、と感心してまた眠った。
　この事件、私は何も活躍したわけではない。数名で犯人を取り押さえ、たまたま私が警察署で調書の作成に協力したまでのこと。犯人を怯ませ撃退したのは、被害者女性のドラマで聞くような「絶叫」と「歯」である。「女の口」の怖さを間の当たりにした。
　それから三週間ほど経ったある日の夜遅く、例の警察署から電話が来た。表彰があるから、明日、警察署に来て頂きたい、とこれまた一方的で急な話。翌日、会社を抜け出して、いそいそと出かけた。
　指定された時間に警察署に着き、カウンターにいた婦人警官に名前を告げると、
「近藤さんがいらっしゃいました！」
　とその婦人警官が署員に向かって素っ頓狂な声を発した。すると、十人ほどの幹部と思しき人たちが金ボタンの上着を着て、瞬く間に私の横に整列。私は持っていたカバンと上着を婦人警官にひったくられ、在校生のアーチの中を潜る卒業生のように、直立不動で敬礼する彼らの中を婦人警官に先導されながら歩かされ、その先の署長室に向かったのである。
　部屋に入るやいなや、敬礼していた警察官もドヤドヤと入ってきて、私をぐるりと取り囲み、その場で何の前触れもなく表彰式が始まった。背広を着た警察署長から、額に入った特大の感謝状とメダルを押し頂く。こんな大それたことになるとは夢にも思わず、心中忸怩（じくじ）たる思いで、厳（いかめ）しい顔で感謝状を読み上げる警察署長の声を上の空で聞いていた。
　その後、署長室のソファーでお茶を飲みながら、署長と二人だけの歓談となった。例の婦人警官が少し離れたところで、にこりともせず立っている。早く帰りたい思いでいっぱいだった。
「平成になってから一時間ほどでの逮捕劇、イヤー、たいしたものです。この総監、平成第一号ですな」「ハァ・・・」
「これはなかなか貰えない。署長賞じゃない、総監ですから。胸を張ってください。近藤さん、あなたが凶悪犯人を現行犯逮捕したのですから・・・」「エエッ！・・・」
　そう言われれば、徹夜で調書をとっていた時、最後の方で警察官に言われるままに何か書かされ、続いて署名した。その言葉の中に「現行犯逮捕」という文字があった。「現行犯・・・」とまで書いたところで、私のペンが動かなくなってしまった。「逮捕」の「逮」の字が出てこなかったのだ。調書をとる前、雑談の中で、私が法学部卒業であることを話していたのだった。だからよけい火を噴いた。恥ずかしさのあまり、現行犯逮捕と私のかかわりが素っ飛んでしまっていたのだった。
　私にしてみれば、ひとの褌で相撲をとったようなもの、棚からボタ餅なのである。しかも私は、犯人を取り押さえながら、「お前の気持ちはよくわかる。運の悪いやつだな」と犯人に同情の念さえ抱いた不届き者。嬉しさよりも後味の悪さに胸が疼（うず）いた。
「私はたいしたことはしていないので・・・」
「イヤイヤ、あれで犯人を取り逃がしていたら、連日、数百人態勢の捜査になり、膨大な労力と費用がかかる・・・」
　早く帰りたい私を尻目に、現代の犯罪の傾向、犯罪史の変遷に関する演説が延々と始まった。私は、ただ、ハアー、それは凄いですね、と頷くだけ。署長の話を聞きながら、「逮」の字のことが甦っていた。それに下手に自分の話をすると、法に触れる行為をポロリと言ってしまいそうで怖かった。やっと演説が一段落したところで、署長が我に帰った。
「ところで、近藤さんは、普段なにかされているのですか」
　と来た。ハハーン、空手とか剣道、柔道のような類の答えを期待しているのだな、何もしていないと答えるのも芸がない。ここはひとつ笑わせてやろうと思い「毎朝、会社でラジオ体操をしています」と答えたら、直立不動で立っていたかの婦人警官が、「プッ！」と吹き出した。署長は微動だにせず「そうですか」と大きく頷き、「では、ご苦労さまでした」と解放された。私は玄関まで見送ってくれた婦人警官に、最敬礼と微笑を返し、署を後にした。
　この日、警察署に呼ばれたのは私だけで、あのタバコを吸えなかった若者は、あれでお仕舞いだったらしい。何とも気の毒な話である。


（四）

　会社に戻り、改めて感謝状を眺め、その賞状の大きさと重厚感に目を見張った。メダルも片方は秋霜烈日があしらわれ、もう一方には警視庁の舎屋が刻まれている。紫のベルベット生地の箱に入った勲章のように立派なものであった。
　その日、それを持って上司と社長室からはじまり、社内を披瀝して回った。
「おい、すぐに社内報の号外と金一封を出せ」
　大正元年生まれの創業社長が、担当部長に命じた。ややあって部長から連絡があり、前例がないということで、社内報の号外と金一封はオジャンになった。だが後日、社長賞として、表彰状と記念品の置時計を頂き、定例発行の社内報にも掲載された。嬉しい反面、人生こんな安易なことでいいのかと訝（いぶか）しんだ。その後、感謝状とメダルは一ヶ月ほど会社に置いて、お客さんが来るたびに上司に呼ばれ、披瀝することとなった。
　この賞を貰って、褒められたり、「凄いですね」などと言われたのは、会社関係を含めた外部の人たちからだけであった。皆から褒められ、いい気になった私は、「実はさ、オレ、凶悪犯人をつかまえて、警視総監賞を貰ったんだ（どうだ凄いだろう）」と吹聴した田舎の母や妹、親類から、例外なく怒られた。「何て危ないことをしたんだ・・・」と。胸を張るどころか、すっかり意気消沈し、小さくなってしまった。本当は、全然、危なくなんかなかったんだよ、とも言えず、悶々としただけで終わった。
　感謝状は、縮小に縮小を重ねたコピーをとり、カード大にしていまだに持ち歩いている。お守りの積もりである。実は、そうやって持っておくと、警察に捕まったときに役立つと囁いてくれた不届き者の上司の言葉を間に受けたのだ。それから二年近く経ったある日、そのコピーが威力を発揮する時が来た。
　会社の近くで、忘年会だったか送別会だったかで、大人数での宴会があった。その翌日、部下を助手席に乗せ、私の運転する車でその宴会場に置いてきた備品を取りに出かけた。
　私の車の運転技術ときたら、知る人ぞ知る凄腕。運転が乱暴で、生きた心地がしないと助手席に座ったことのあるひとから何度も言われていた。現に、私の母や妹の悲鳴を何度か耳にしたことがある。
　大学生のときに故郷の北海道で免許をとった。いわば牧場の中で運転免許を取ったようなもので、二車線の道路などないし、ゴチャゴチャした道もない。道は真っすぐにできているものだ、と思って幼い頃から生活していた。信号機が街に取り付けられたのは、小学校高学年。珍しくて学年ごとに見学に行ったほどの田舎町である。
　そんな所で免許を取ったのが、そもそもの間違いだった。しかも教習所で受けた運転適正試験で、「運転不適格者」というレッテルを貼られ、「お前、免許とっても、車に乗ンねえ方がいいンでないかい」と免許取得前から教官に言われる始末。確かに、教習コースでの運転にはひとの数倍の苦労をした。ちなみに、現在、私が勤める会社、業種が「自動車用品販売・製造業」。何と人生とは皮肉なことか。とにかく都会の道路に慣れねばと思い、東京に来たての頃は車の運転をしていたのだ。
　宴会場に向う話。
　会場を目前にした二車線道路で、信号待ちとなった。高速道路の下に目的の宴会場があり、十メートルとないキョリ。あいにくすぐ横にパトカーが止まった。信号は、ひどく離れた遠い先にあった。こういう場合、左折してもいいのではないか、という考えがふと過ぎった。「おい、どう思う」と助手席の部下に尋ねた。訊いた相手が悪かった。免許をもっていなかったのだ。「いいンじゃないですか。すぐそこだから」といとも簡単に言う。そうだよなといって、疑心暗鬼ながらもパトカーの警察官の顔色を眺めながら、恐る恐る徐行し、左折。ダメだったら何か言ってくれるだろうと思ったのだ。
　ところが、である。宴会場に車を横付けしようとした途端、警察官がスピーカーで「〇〇番の車輛、停止しなさい」と言うではないか。警察官が下りてきて「信号、赤だったろう。信号無視じゃないか」と高圧的な態度。署までついて来いということになった。派出所は信号の少し先にあった。普段、温厚で通っている私も色めいた。「だからお前の顔を見ながら左折したのだ。どこの世界にパトカーが横にいて、信号無視をするバカがいるか。左折してもいいか悪いか、それを教えなかったお前が悪い！　警察官なら善良な市民に対し、もっと親切であるべきだ」と言いたいところをグッと呑み込んだ。
「免許証！」
　と無愛想な警官の手に、免許証入れごと免許証を手渡す。憮然としている私の横で、警察官が免許証を確認している。さすがの私も、どうなるのだろうかと青くなった。免許証を手にした警察官が派出所の奥に姿を消した。しばらく間があって、声がした。
「エー、近藤健。平成元年一月八日、警視総監、照合願います、どうぞ！」
　アッ！　と叫びそうになった。免許証入れに例のコピーが入っていたのだ。時間が経っていたのと頭に来ていたので、そんなことはすっかり飛んでいた。しばらく間があって、「了解！」という声が聞こえた。
　打って変わって、にこやかな表情で警察官が奥から戻って来た。効力は絶大だった。態度が、ガラリと変わっていた。
「近藤さんも、警察活動にご協力されているので、今回は『注意』ということで結構です」
　と言って敬礼された。「何だー！　お前は！　だから言ったコッチャない。信号無視か否か教えなかったお前が悪かったのだ。田舎の駐在なら絶対そんなことはない」と思いながらも、監獄から釈放された高倉健のような顔で、深々と礼をして派出所を後にした。込み上げる笑いを抑えるのが大変だった。
　家に帰り、妻にその話しをしたら憮然とした顔。この賞、妻にとっては置き去りにされた想い出しかなかったのだ。
　今振り返れば、当時、私たちは「愛の強化合宿」の真っ只中。付き合って日の浅かった私たちが、お互いのことをもっとよく知ろうと始めたものだった。その甲裴あってか、四月に目出度く結婚。十一月には子供まで生まれた。効果は、絶大過ぎた。私は三十歳目前、妻は二十になったばかり。
　結婚が決まった時、上司や同僚はもとより、友人からも祝福どころか犯罪者呼ばわりされる始末。妻からは、いまだ事あるごとに「私たちに新婚時代、あった？」「友達がみーんな遊んでいたとき、私はひたすら子育て・・・」と責たてられる。人生とはかくもままならぬものか。あの朝、蒲団の隙間から覗いていた子羊の目がいけなかった。今度は私がオオカミと化した。かくして私たちの愛は臨界点に到達したのである。
　平成元年初日の朝は、愛と犯罪、そして火柱の立つような恥しい想い出の入り混じった忘れ難い日となった。あれからまもなく十五年、警視総監賞は押入れの奥深くに半ば忘れられながら仕舞われている。縮小されたコピーの方は、ボロボロになりながらも免許証入れから財布に場所を変え、いまだに鎮座している。お金が増えるという効能はないようだ。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　平成十五年十月　　小　山　次　男