Coffee Break Essay




 腹を下す


 子供のころから胃腸が弱い。常に胃の存在を感じながら生活している。だから、必然的に睡眠も浅く、ちょっとした物音でも目が覚める。日中はカフェインの力で眠気を抑え込んでいるので、私の傍らには常にコーヒーがある。「コーヒー、好きなんですね」とよく言われるが、面倒くさいので「はい、そうかも知れませんね」とコーヒーならぬお茶を濁している。

 日中のカフェインの過剰摂取は、胃の調子をますます悪くする。だから、胃薬を飲みながらカフェインを摂るというバカげたことをする。寝る間際までパソコンに向かう生活をしているので、布団に入ってもなかなか寝付けない。神経が尖っているのだ。ストンと眠りに堕ちたいばかりに、毎晩のようにアルコールを摂取する。アルコールとカフェインのせめぎ合いを胃薬が仲裁する、そんな本末転倒な生活を長くしてきた。

 しかしながら、毎年の人間ドックでは異常はないし、あの屈辱的な大腸内視鏡検査でも、何ら問題は見つかっていない。常に「正常の範囲内」なのである。納得はいかないが、それが現代医学の限界なのだろうと諦観している。

 かなり前に、「ニッポン人は、胃腸が弱い」というフレーズを繰り返す歌があった。曲名は忘れたが、オレだけじゃないんだ、という安心感と親近感を覚えたことがある。

 尾籠(びろう)な話になるが、胃腸が弱いと腹を下すことが結構ある。急に腹痛が起こることほど厄介なものはない。東京での生活の中で、朝の通勤ラッシュで何度トイレに駆け込んだことか。朝は、そういう人が結構いるので、トイレが空いていなくて往生したこともあった。

 腹を下す原因は大きく分けると五つあるという。冷え、食あたり、酒、ストレス、そして年齢だという。私が腹を下すのは、飲み過ぎた次の日がそうだ。最近では、乳製品がダメになった。これは年齢によるもののようだ。だが、消去法でいくと、最後に残るのはストレスになる。確かに心因性の要因は否めないが、「もともと胃腸が弱い」という六番目の原因があってしかるべきではないかと思う。

 大学受験でも苦い想い出がある。京都のとある大学の地方試験を北海道大学で受けたことがあった。最初の試験が国語だった。試験が始まって三十分も経ったころだろうか、腹痛がひどくなりどうにもならなくなってきた。脂汗が出てくる。こめかみに太い筋が立つ。第一波、第二波と押し寄せてくる波をやり過ごしていくのだが、その間隔が次第に狭まってくる。国語の試験ゆえ、長文問題を読まなければならない。そのうち、まったく頭に入ってこなくなった。試験開始から三十分を経過しての離席は失格になるのだが、もはや待ったなし、それどころではなくなった。やむなく戦線離脱というシャレにならない結末を迎えた経験がある。

 このような類のことは私一人ではないはずだ。普段、すました顔をして街を歩いている人にも、他人に言えない腹下しのハプニングがあるに違いない。

 東京に住み始めたばかりのころだからもう三十以上も前の話になる。

 街を歩いていて、急に腹痛が始まったやむなく、近くにあったデパートのトイレへ駆け込んだ。ギリギリセーフ、というタイミングだった。だが、困ったことにトイレットペーパーが空になっていた。いろいろ探したが、拭()けるものがない。当時は、もちろんウォシュレットではない。男というもの、律儀にポケットティッシュなんぞ持ち歩かないものである。やむなくトイレットペーパーの芯を取り外し、その芯を柔らかく揉みほぐして難なきを得た。当時は芯のあるトイレットペーパーが使われていたのだ。

 ヤレヤレと一安心しトイレを出たら、「スイマセン」と背広姿の中年男性が体当たりせんばかりの勢いで突進してきて、私の後に入ってしまった。オッサンもオレと同じかよと思いつつ、そういえばトイレットペーパーがないな、と思った。そこで興味を持った私は、トイレを出たところにあった長椅子に座って、タバコを吸いながらその男性を待つことにした。そこは、階段の踊り場に面しており、喫煙場になっていた。当時は喫煙もゆるく、私もタバコを吸っていた。

 しばらくすると、男性が出てきた。何事もなかったように平然としている。なんだよ、ティッシュ持っていたのかと思いながら、歩き去る男性をやり過ごした。男性は、そのまま階段を登って行った。

 その階段を上がる後姿を見るともなく眺めていたのだが、何か違和感がある。黒い革靴の足元がチラチラしているのだ。何だろうと思ってよく眺めると、そのオッサン、靴下片方はいていなかった。

 人はみなそれぞれに一生懸命生きている。


                   平成二十九年七月  小 山 次 男