Coffee Break Essay



この作品は、児童文学同人誌「まゆ」第117号(2012年9月発行)に掲載されております。

 『花嫁からのメッセージ』


 昨年(平成二十年)の夏、十一年ぶりに結婚披露宴の司会を引き受けた。披露宴といっても会社の同僚だけのお披露目パーティーである。新郎が三十九歳の再婚、新婦がひとつ年下の初婚という難しい司会であった。

 私には披露宴の司会が趣味だった時期がある。「だった」というのは、最後の司会を終えた年、妻が精神疾患に陥ったためである。その後も何度か司会を頼まれたことがあったが、すべて断ってきた。土壇場でキャンセルし、迷惑をかけられなかった。妻の病状は極めて不安定で、司会はおろか披露宴への出席すらできずにいた。

 今回司会を引き受けたのは、妻が入院中であったためである。その話を妻にすると、

「私がいない方が、ノビノビと何でもできていいんじゃない……」

 妻の鋭利な言葉が、私の胸をグサリと抉(えぐ)った。妻に悪意はない。十一年の闘病生活が、そういわせているのである。妻は時折、深い絶望感に苛(さいな)まれ、生きている意味を見失う。処方されている抗精神薬や入眠導入剤を一度に全部飲んでしまうのだ。過量服薬では、これまでに七回、病院へ運んだ。今回は、十二回目の入院だった。

 仕事帰りに一杯飲みながら、新郎・新婦と初顔合わせを行った。新郎は同僚で既知の間柄だが、新婦とは初対面であった。遅れて店に入ってきた新婦を見た瞬間、膝がワナワナと震えた。

 それは新婦がすこぶる美人だったこともあるが、彼女が入ってくるなり、周りの空気がパーッと明るくなったからである。その雰囲気に幻惑を覚えたのだ。海外旅行が趣味だというこの女性が、なぜ、同僚に惚れたのか、そんな興味を彼女に覚えていた。

 司会のネタを模索する会話の中で、彼女が十五年にわたり脳梗塞で倒れた父親の看病をしていることがわかった。彼女の華やぎの秘密がそこにあるのではないかと思った。笑顔で語るには重すぎる話に、すっかり泣かされた。芯の強い女性であった。新郎は彼女の困難のすべてをひっくるめて、一緒に歩むことを決意していた。二人の話を聞きながら、この二人に報いようという意欲が沸々と湧いていた。

 数日かけて司会の原稿を作成した。すべてはラスト五分のために、そう自分にいい聞かせ、当日に臨んだ。

 緊張でガチガチになりながら始まった披露宴も、祝宴になってからは華やいだ空気に包まれていた。女性が多かったせいもある。酒が入るに従い、列席者のボルテージが上がってくる。あちらこちらからドッと笑い声が上がっていた。ラストの時間が刻々と近づいていた。キャンドルサービスも両親への花束贈呈もないこの披露宴が、心に残るものになるかどうかは、私の演出にかかっていた。大きなプレッシャーだった。

 新郎・新婦が謝辞を述べるためにお開き口に移動する。それを合図に、会場の照明が落とされ、床を這うような低いピアノの音曲が流れてきた。生演奏である。スポットライトに二人が浮かび上がると、会場の喧騒が波が引くように静まり返った。いよいよ始まる。演台に隠れた私の脚が小刻みに震えていた。

「結婚とは、両性の合意にのみ基づいて行われるという規定が憲法にございますが、結婚はやはり、ご両家の結び付きでもございます。お二人のご両親、ご兄姉の慶びを察するとき、胸に去来する熱い思いを禁じ得ません……」

 ダメだ……ひどく硬すぎる、と思った。

「淑子さん。私があなたに始めてお会いしたのは、わずか十日ばかり前のことです。華を秘めた女性だなというのが、私の第一印象でした。

 お会いしてすぐに、あなたの屈託のない輝く笑顔と、溌剌(はつらつ)とした挙措(きょそ)に、新郎を前に、有頂天になりかけている自分を感じておりました。もっとも、私は女性を前にすると、誰にでも有頂天になる性癖があるのですが……」

 静まり返っていた会場がドッと沸いた。司会者に泣かされるのではないか、と誰もが構えていた。これでうまくいくと思った。

 笑いの余韻の中で、全員が私の言葉に耳を傾けている。ここで新婦と母親と姉の三人での看病の様子について語った。

「現在のお父様は、会話はおろか、お二人が結婚されるという認識すらできていないご状況です。その話を伺い、私は言葉を失ってしまいました」

 新婦はそれまで、父親の病状や闘病生活について、親しい友人にすら詳しく語っていなかった。そんな新婦の気持ちが、私にはよくわかった。いい機会なので、この話を披露宴で使わせてもらいたいと新婦にお願いし、事前に快諾をもらっていた。私は一気に先を続けた。

「二十代前半からお父様の介護に当られてきた淑子さんにとって、国内外の旅行は、趣味ではなかったのです。介護によって燃え尽きそうになるご自身の活力を取り戻すための、気持ちの切り替えの手段でした。たった一人でイタリアへ行って、大好きな風景の中に自分を溶かし込む、いわば風景に慰藉(いしゃ)を求める旅だったのです。

 ひとえに十五年といいますが、長い年月です。よく頑張って来られた。その間には、お母様も何度か体調を崩されている。

 病院というところは、長期入院のできないところ。そこを転々とされてきた。そのご苦労を思うとき、言葉に現せぬ思いがございます」

 会場からは音が消えていた。ピアノの音だけが静かに床を這っていた。

「淑子さんは、そんな翳(かげ)を微塵も見せない。さぞお辛かったでしょう。でも、もう大丈夫です。佐多さんという伴侶に巡り会えたのですから。佐多さんは、あなたの大きな力となってくれることでしょう。

 お話もできない混濁した意識の中でも、お父様のお耳には、必ずやお二人の言葉が届いているはずです。私にはお父様の言葉にならない言葉が聞こえるような気がいたします。

『おめでとう、淑子。幸せになれよ。今までお父さんのこと……苦労かけたね。ありがとう』

『佐多クン、淑子のこと、よろしくお願いします』

 お父様の涙をいっぱいに湛えた溢れんばかりの思いが、伝わって参ります。お父様のご快復を、ただただお祈り申し上げるばかりです」

 会場のあちらこちらから、鼻をすする音が聞こえ、涙を拭う姿が見えた。リーディング・ライトに照らされた手元の原稿を指で追いながら、私は宴席を挟んで会場の端に立つ新郎・新婦に向き合っていた。私が話している間中、新婦の目が一度も私からそれることはなかった。新婦が背負ってきた人生の重みを、その視線の強さに感じた。新婦の目からは大粒の涙が溢れ、それが新婦の頬をキラキラと輝かせていた。

「お二人はいくつかの困難を秘めて一緒になられることを決意いたしました。これから人生の途上において、様々な難しい場面に出くわすことがあるでしょう。登れぬような山の向こうに、渡れぬような河が横たわっているかも知れません。絶望の淵に立ち、呆然と立ち竦(すく)むこともあるでしょう。どうぞお二人、相和し、相扶(たす)けて、共に憂い、共に嘆き、共に楽しみ、共に笑い、人の世の幾春秋を重ねつつ、何ものにも替えがたいお二人だけの幸せの形を探していただければ幸いです」

 二人を励ましながら、私は自分自身にエールを送っていた。

 披露宴の二週間後、奇しくも実家の母が脳梗塞で倒れた。私は妻の退院を引き伸ばしてもらい、北海道へと急いだ。母とは九年ぶりの再会である。妻の病状が重く、九年間も母に会うことができずにいた。母はずっと耐え続けていたのである。道中、母に詫びる気持ちが胸に溢れた。

 幸い母の症状は軽症で、重度の後遺症も残らずにすんだ。

 帰りの飛行機の中で、窓外の真っ暗な夜空を眺めながら、再び始まる妻との闘病生活を思い、あの披露宴を思い返していた。宴席の端から、じっと私を凝視していた新婦の眼差しに、強く生きなさいと励まされている自分を感じていた。

               平成二十一年七月 小暑  小 山 次 男


 付記

 平成二十四年八月に加筆し、児童文学同人誌「まゆ」第一一七号(二〇一二年九月発行)に掲載。平成二十四年十二月に再加筆。