Coffee Break Essay


 『ご先祖様の魔法』

 なにが苦手といって、作文ほど嫌なものはなかった。小学生の夏休み、涙なしに最終日を迎えたことがなかった。

「漫画でも何でもいいから、本を読んでくれないかな」

 という母の嘆きを幾度となく聞いた。

 私が本を読み出したのは、高校に入ってからである。学生寮の仲間の影響もあるが、あまりにも現代国語の点数が悪かったので、その対策として読書を始めた。だが、国語の点数は一向に芳しくなかった。

 大学時代、執拗にレポートの提出を求める先生がいた。一冊の本を読んでそれを要約して提出するのだが、何回書き直しても合格点をくれない。卒業がかかっていた授業であったので、途方にくれた。

 そんな私がエッセイを書き出したのは、四十歳からである。きっかけは、妻が精神疾患に陥ったことによる。何かに没頭していなければ、共倒れになる危機感を覚えたからである。

 ひとつの文章を書いては削り、行を入れ替え、さらに付け加えては削る、そんなことを来る日も来る日も繰り返していた。ひとつのテーマで自分の思いを執拗に書き直した経験は、これまでになかった。そんな文章が、次第に手元に溜まっていった。

 そのうち、私が書いているのは、本当にエッセイとして通用するのか、という疑念が湧き出した。四十三歳の年、初めて応募した同人誌のエッセイ賞で、最優秀をもらった。その後、毎年のように何かしらの賞をもらっている。

 まわりがとても驚いた。母はいうまでもなく、親類縁者、学生時代の私を知る者は、一様に目を丸くした。

「そんな才能、あったかな……」

「いつの間に文章を書くようになったの」

 だが、誰よりも一番驚いたのは、私自身である。何故だ、という思いが未だに拭えない。

 怪我の功名という表現が正しいかどうかは別として、妻のおかげで文章が書けるようになった。だが、それだけでは説明できないものを感じる。

 私はエッセイを会社のホームページに発表している。以前、『大叔父』(後に『介錯人の末裔』と改題)と題して赤穂浪士事件にかかわった祖母(母方)の家系(米良家)のことを書いていた。それを見た東京の赤穂浪士研究家であるS氏を通じて、熊本の史家K氏から、一通の手紙が札幌の大叔父のもとに舞い込んだ。老齢な大叔父は手紙を書くことができず、同居している息子も忙しさにかまけ返信を怠っていた。

 そんな最中、今度はS氏が私の会社を通じて私に接触してきた。これが二人の史家との出会いである。

 二人の後ろ盾を得た私は、大叔父米良周策のもとにあった古文書を借り受け、S氏の手により翻刻文と現代語文が作成された。さらに明治初年までの家系図が作られた。

 私の方は、米良家にあった除籍簿をもとに、現在までの家系図を作成した。この二つの家系図のつながりを立証する資料は、K氏によってもたらされた。K氏は、熊本県立図書館から古文書と除籍簿の間に抜け落ちていたひとりの人物を発見し、その資料を送り届けてくれたのである。これによって米良家四百年、十六代にわたる系譜が完成した。

 その家系図作成の過程で、三代米良市右衛門が元禄十六年(一七〇三)、赤穂義士堀部弥兵衛の介錯をした事実を確認し、明治九年(一八七六)熊本で勃発した神風連の乱で自刃した十一代米良亀雄、その七カ月後、先に家督を譲った十代左七郎が西南戦争で戦死していることを知った。さらに亀雄の弟である十二代四郎次が、屯田兵として熊本から北海道に渡っていることを確認する。

 この四郎次が私の曽祖父にあたる。十三代は太平洋戦争後、抑留先のシベリアで衰弱死し、その弟周策(八十四歳)が十四代として現在に家系を伝えている。周策は、私の亡祖母の弟である。

 その後私は、二枚の家系図を一枚にし、それまでに判明した事跡を書き込む作業に没頭した。家系図の作成にとりかかってから、一年半が過ぎていた。

 さらにS氏の勧めで、米良家の通期の歴史を文章にすることを始めた。S氏やK氏から紹介された書籍や資料をもとに作業を進めたのだが、素人の手には難物であった。歴史を基本的な部分から勉強し直さなければならなかった。

 サラリーマンである私に許された時間は、寝る前のわずかな時間である。妻が患ってからは、家事の一切を引き受けていた。

 それから半年、取り憑かれたようにこの作業に没頭した。途中、あまりの困難さに投げ出しそうになったが、何かに背を押されるようにして書き継いだ。そのころから、誰かが私に書かせようとしているのではないか、と考えるようになっていた。かくして一〇五枚の『肥後熊本藩士米良家の歴史』が完成した。

 一連の作業が終わったとき、胸中を清々しい風が吹きぬけるのを感じた。

 完成した作品を点検してもらうため、熊本のK氏のもとに文章を送っていたところ、次のようなメールをもたった。

「私は今、瞼を熱くして感動の真っ只中にいます。(略)私のこの感動は、近藤さんの手によって歴史がよみがえり、時空を越えて一族に誇りをもたらすであろう予感です。先祖のお墓に香華を手向けるよりも、はるかに感動的な先祖の供養だと思います……」

 祖先の供養……私はドキッとした。実は、このK氏からのメール、先に書いた『肥後熊本藩士米良家の歴史』と時を同じくして、古文書と除籍簿の間に抜け落ちていた米良亀雄のことを、『米良亀雄と神風連』として七十一枚の文章にし、ホームページに発表していたのである。せっかく神風連の乱を調べ上げたのだから、できるだけ詳しく拾い上げておきたいという思があった。そのホームページにK氏が目をとめて、メールをくれたのである。

 米良亀雄が不平士族の反乱である神風連の乱で自刃した後、弟の四郎次は熊本を去って北海道に渡っている。逆賊の汚名を着た亀雄の墓は、米良家の菩提寺である宋岳寺とは別のところにある。その墓を発掘したのが、熊本の史家荒木精之氏である。

 荒木氏は昭和十六年の夏から神風連烈士一二三名の墓探しを始め、「それは狂人のごとき仕業」であり、「私にしてみれば必死のみそぎであり、また行であった」とそのときの様子を、著書『誠忠神風連』の中で述懐している。

 亀雄の墓を本妙寺常題目の墓地に探し当てた荒木氏は、その時の感慨を二首の歌に託している。

  藪をわけ さがせし墓の きり石に 御名はありけり あはれ切石

  まゐるもの ありやなしやは 知らねども 藪中の墓 見つつかなしえ

 さらに墓碑銘は次のように刻まれているという。

  「明治九年 米良亀雄実光墓 旧暦九月九日卒」

 荒木氏が亀雄の墓を探し当ててから、すでに六十年以上の歳月が流れ、墓は再び時の流れに埋没している。曽祖父四郎次が熊本を離れ一二〇年、以来、米良家は一度も墳墓の地を訪ねていない。

 私は信心深い性質ではない。どちらかとその対極にいる。そんな私が何かに突き動かされるようなものを感じた。私を利用して、祖先の事跡を掘り起こさせようとしたのではなか。俺のことを忘れるな、と亀雄がいっているようにも思えた。だが、何故、この私なのだという思いは拭えない。

 亀雄の墓を求めて、熊本のK氏が以前に本妙寺常題目の墓地を訪ね歩いてくれたが、容易に探し出せない場所のようである。

 K氏からのメールには、私の文章を里帰りさせてもらいたい、とあった。熊本県立図書館や、神風連資料館などで収蔵してもらえるよう、検討して欲しいとのことである。

 ありがたい話である。私の文章が供養となり、鎮魂となれば願ってもないことである。

 一連の家系探索の作業を終えた後、私は以前のようにエッセイが書けなくなっている。書けなくなったとは語弊があるが、これはまずまずの出来だな、と思えるものが書けていない。発想が枯渇したように、何も思い浮かばないのだ。先祖の作業が一段落したので、

「お前の役割はここまでだ」

 と私にかけていた魔法を解いたのではないかと、とんでもない方向に考え始めている。自分の能力を棚に上げ、先祖のせいにしようとしているのだが、そう思えて仕方がない。

 そんな中、K氏から福岡に住む小林恒太郎氏のご子孫の紹介を受けた。小林恒太郎氏とは、亀雄が神風連の乱に参加したきっかけとなった人物である。小林氏は、神風連の乱では参謀格であり、二十四歳の若さで自刃している。奇縁としかいいようがない。

 やはり一度、熊本を訪ね、自らの手で先祖の供養をしなければなるまい、と思っている。

                 平成十九年八月 処暑  小 山 次 男