Coffee Break Essay



この作品は、室蘭民報(201610月29日)夕刊「四季風彩」欄に掲載されました。


 ご先祖の墓を守る


 祖母(母方)の家系は熊本藩士だった。元禄十五年に吉良(きら)邸に討ち入った四十七士の一人、堀部弥兵衛(やへえ)の介錯を行った者がいた。そして、曾祖父が屯田兵として渡道して来た。わかっていたのは、それだけだった。

 後に東京の赤穂義士研究家佐藤誠氏と熊本の史家眞藤國雄氏との知遇を得た。それが祖母の家系、米良家を調べるきっかけになった。八年にわたる調査で、現当主の曾孫を含めた十七代四百年にわたる事跡が浮かび上がってきた。

 曾祖父の兄亀雄が、明治九年の神風連(しんぷうれん)の乱(熊本)で自刃していることが判明。廃藩置県により失職した士族は、その後の断髪令や廃刀令により、その存在意義を失った。退路を断たれた彼らの憤激は、武士としての死に場所を求める方向に走った。

 当時、新政府軍の軍営が熊本城に置かれていた。二三〇〇人の敵に対し、二〇〇人足らずで斬り込んだのである。難攻不落と称された、かつての勤務先への襲撃だった。翌年の西南戦争では、曾祖父の叔父左七郎も銃弾に倒れている。

 反乱軍である彼らとその家族は、逆賊の汚名を被り、菩提寺への埋葬すら許されなかった。曾祖父が自らの出自を語らなかった一端を、垣間見た思いがした。

 この詳細をネットで発表していたところ、平成二十年、熊本の自衛官(当時)久直広氏により、米良家の墓が発見された。曾祖父の父母兄弟や祖父母、叔父の五墓碑である。

 実はこの米良家の墓、熊本の史家荒木精之氏により一度見出されている。荒木氏が昭和十六年より神風連の乱に加わった者の墓を捜し歩いていた。米良亀雄の墓を探し当てたときの感慨を二首の歌に託している。

「藪(やぶ)をわけさがせし墓のきり石に御名はありけりあはれ切石」

「まゐるものありやなしやは知らねども藪中の墓見つつかなしえ」

 荒木氏の著作の中に見出した歌である。その後、米良家の墓は再び時間の中に埋もれてしまった。

 平成二十二年、私は佐藤氏とともに満を持して熊本を訪ねた。存命である祖母の弟妹から、米良家の永代供養を託されていた。曾祖父が、明治二十二年に墳墓の地を離れ、一二〇年の歳月が流れていた。

 発見された米良家の五墓碑のうち、一基は完全に破壊されていた。眞藤氏の調査により、明治二十二年の大地震で、斜面上部からの石の直撃を受けたものと推測された。別の一基には、大石が接して止まっており、周りにはほかにも大きな石が見受けられた。地震は、曾祖父が北海道に上陸した一週間後に発生している。

 さらに亀雄を含めた二墓碑の礎石底部に、比較的新しい修復痕があった。誰かが倒れていた墓碑を立て直し、修復してくれた跡である。

 この四月、再び熊本が大地震に襲われた。修復痕のあった二墓碑が、また倒れていることがわかった。周囲の状況が完全に落ち着いたら、立て直してもらわねばと思っている。

                平成二十八年十一月   小 山 次 男