Coffee Break Essay



この作品は、20139月発行の同人誌「随筆春秋」第40号に掲載されています。


 「五右衛門風呂とおっぱい」


 「あんたら、仲ええなァー」

 というのが鶴湯のオバちゃんの口癖だった。

 学生時代、アパートに風呂がなかった我々は、毎夜、五、六人で連れ立って、銭湯へ通っていた。その中には女の子もいた。男はみな学生で、女の子は美容室の見習いやOLだった。みな同じ年頃の者ばかり。場所は京都の深草、三十年も前の話である。

 風呂から上がるのは、どうしても男たちが先になる。脱衣所の長椅子に座って、手持ち無沙汰に待つ。やがて、「さあ、出なはるよ」という番台からのオバちゃんの掛け声で外に出るのだが、待ち切れないときもある。

「オバちゃん、もう出とォ?」

「今、洗い場から出はったとこやわ。からだ拭いてはる」

(からだ……)我々の想像が爆発する。しばらくして、

「オバちゃん、今、なにしとぅ」

「そやなァ、一人は服着てるとこやし、もう一人は髪、乾かしてはるわ」

 五十代のオバちゃんは、我々の反応を楽しんでいた。

 アパートは新築だった。木材業を営む大家が、木材置き場の一角に学生向けのアパートを建てたのだ。大学は道路を挟んだ目と鼻の先にあった。

 三階建てのアパートの一階が吹き抜けになっており、伏見稲荷大社に近いこともあり、鳥居職人の作業場になっていた。居住部分は二階と三階で、四畳半の部屋が廊下を挟んで各十室あり、トイレと炊事場は共同だった。

「女の子がいた方が華やかでええさかいな」

 飲んだときの大家の口癖で、二階には女性も入居していた。五十代半ばの大家は無類の酒好きだった。一室を空けてそこを宴会場にし、奥さんに内緒で炬燵(こたつ)とナベの道具を買い込んで、月に二回のペースで宴会を開いていた。

 夕方、木屑(きくず)にまみれた大家が、首に下げたタオルで顔を拭(ぬぐ)いながら二階に上がって来る。

「今夜、やろか。あんじょ用意せぇ」

 お猪口(ちょこ)を口に運ぶ仕草をして、ポケットからクシャクシャの一万円札を無造作に取り出す。そこで酒とナベの材料の買い出しに出かける。三人がかりである。夏も冬も関係なくナベなのだ。宴会の準備は、同じ階にいた学生の坊さんが仕切っていた。彼が卒業してからの二年間は、私がその役を引き受けた。

 お金のないときは大いに助かった。だが、試験があろうがお構いなしに行われる宴会には閉口した。

 飲んだときの大家の話は、木材組合で年に一度いく、海外売春ツアーの話である。それが大家の生きがいだった。小遣いの捻出は、集金した材木代金のピンハネである。我々の宴会費用も、そんなお金で賄われていた。

 暖かいうちは銭湯通いもよかったのだが、冬になると億劫(おっくう)になってくる。銭湯代もバカにならなかった。

 あるとき、一つの閃(ひらめ)きが起こった。アパートの周りには、巨木が山と積まれ、木材の切れ端がいくらでもある。それを燃料にすればいいじゃないか、と。飲み会のたびに、大家に風呂の話を持ちかけた。

 最初のうちは「アホ言え」、と一蹴(いっしゅう)していた大家だが、

「なあ大家さーん、お風呂、つくってえなぁ」

 若い女の子に囁(ささや)かれては大家も弱い。ほどなく、一階の片隅に風呂が完成した。大家は寒い中、身を丸めながら銭湯へゆく我々の姿を目にしていたのだ。

 大家が造った風呂は、一見すると一般家庭の風呂と何ら変わらなかった。だが、湯舟の底にスノコが敷かれ、外からくべる薪の炎で直接浴槽のお湯を沸かす仕組みになっていた。大家は五右衛門風呂を造ったのだ。

「さすが大家さん、うち嬉しいわぁ」

 女の子に抱きつかれた大家は、満面の笑みで、これ以上は伸びないというほど鼻の下を伸ばした。完成した風呂に真っ先に入ったのは、大家だった。

 風呂は自分たちで沸かして掃除をする、というのが大家の条件だった。木材屋なので、火の始末にはとりわけうるさかった。

 風呂には一人しか入れない。風呂の外にサンダルがあれば、誰かが入っている目印である。アパートの女の子たちも、臆することなく風呂を使っていた。女物のサンダルが外に出ていると、ついつい声をかけてしまう。

「湯加減は、どないや」

「ちょうどええわ」とか「もうちょっと火ィ、入れてくれへん」と中から声が返ってくる。

 あるとき、隣室の中谷が血相を変えてやってきた。三階の山下が、彼女と一緒に風呂に入っているというのだ。いってみると、外には男物のサンダルが一足出ていた。だが、耳を澄ますと、風呂の中からは小さな話し声が聞こえてくる。

 頭にきた我々は、忍び足でかまどに近づき、ありったけの薪を押し込んで部屋に戻った。二階の窓から様子を窺っていると、真っ赤になった山下が腰にタオルを巻いて出てきた。燃え盛るかまどを覗いて、仰け反っている。そこに運よく大家が現れた。火の元が心配で、頻繁に見回りに来るのだ。

「薪、くべすぎやないか。アホか、お前はッ!」

 裸の山下がこっぴどく怒られている。自分がやったのではないとも言わず、ひたすらペコペコと謝っているのだ。山下は大家が早く立ち去ってくれることを祈るような気持ちで願っていたのだ。

 また、大学の仲間数人と、木材置き場を歩いていたときのこと。夕方、明るいうちから早々に風呂に入っていた女の子が、風呂の窓から顔を出した。大声でふざけあう我々の喧騒に、何ごとかと思ったらしい。私を見つけた女の子が、

「おーい、近藤クーン。ヤッホー!」

 と大きく手を振っている。五人の男たちは、その光景に釘づけになった。風呂の窓は結構高い位置にあった。湯舟の中に立って窓を開けなければならないのだが、手を振り上げる彼女の右のおっぱいが丸見えだった。彼女はそれに気づかずに、元気よく手を振っている。呆然としている我々に気づいた彼女が、「キャー」といって身体を引っ込めた。恐る恐る目だけ出して、

「今、見えとった」

 と恥ずかしそうに言う。我々は、これ以上大きく振れないというほど、全員が大きく首を横に振った。声を発している者は誰一人いなかった。

 その後、私のアパートが大評判となり、ひっきりなしに仲間が集まるようになった。大家も仕事中に手を振られたことがあったらしく、「あいつにはかなわんなァ。風呂造って正解やったわ」と満面の笑みを浮かべていた。

 卒業後聞いた話では、手を振ってくれた女の子が大家の娘になった。家業を手伝っていた息子と結婚したのだ。彼もまた手を振る彼女の姿を見たのだろうか。

 夢のような学生生活は、瞬く間に過ぎ去った。


            平成十七年二月雨水    小 山 次 男

 付記

 平成二十五年十月 加筆