Coffee Break Essay


 「下血」


 (三)絶食治療 ―― 経腸栄養剤


 検査が終わって、腰が抜けるほどホッとした。そんな安堵感もあってか、ひどい空腹を覚えた。これでやっと食事ができると思ったら、絶食治療を行うから食事はダメだという。私は途方にくれた犬のような顔をしていた。だが、普段なかなか体重を落とせず難儀していたこともあり、絶好のダイエットチャンス到来、という考えもよぎった。かくして三日間、液体の栄養剤(経腸(けいちょう)栄養剤)だけで過ごすことになった。

 近所の調剤薬局で渡された袋は、ズッシリと重かった。四〇〇ミリリットルの栄養剤が九袋入っていた。一日三回、三日分、三・六キログラムの重量である。これが三日分の食料かと思い、内心ゾッとした。若い女性薬剤師にこの栄養剤、飲みやすいのかと尋ねると、薬剤師が驚いた顔をし、

「えッ、口から飲むんですか」

 と言って慌てて処方箋を確認している。薬剤師は、私の身内に終末期医療患者がおり、それに使うものだと思っていたようだ。決して美味しいとはいえませんが、飲めないことはないはずです、となんとも心もとない返答。塩水地獄を終えたばかりなので、なんだか嫌な予感がした。

 この栄養剤、本来口から食事を摂れない患者が、鼻に通した管や腹部を切開し直接胃に管を通す、いわゆる胃瘻(いろう)によって摂取するものである。植物状態の人が点滴や栄養剤をぶら下げた袋から管を通して投与されている、あれが経腸栄養剤である。それを口からチューチュー飲めというのだ。

 自宅に戻って、目の前に置いた栄養剤の袋をしばらく眺めていた。ほとんど丸一日なにも食べていないが、栄養剤を口にする気分になれないのだ。シルバーグレーのパッケージには、たんぱく質、脂肪、糖質、電解質、微量元素類、ビタミンなどの成分がびっしりと書かれている。人類の英知の結集だ。これさえ飲んでいれば必要な栄養はもれなく摂取でき、死ぬことはない。植物人間を作り出している功罪でもある。自らすすんで、さあ飲もう、という物ではなかった。

 一時間ほどただ呆然と袋を眺めていたが、やがて意を決しその一つを手にとり、封を切った。甘いコーヒーのような人工的な香りが鼻についた。絵の具の筆を洗った水のような、茶色がかった乳白色のドロッとした液体が見て取れた。目をつぶって思い切って口に含んだが、グイグイとは飲めない。

 なんとか半分だけ飲んで、残りを冷蔵庫に入れた。一時間後、全てを飲みきった。冷やすと幾分飲みやすくなった。確かに胃は膨らんだが、食事を摂ったときのような満足感は得られなかった。その証拠に、ほどなく空腹を覚えた。あと八回この作業が繰り返される、そう思っただけで気が遠くなった。

 翌朝、冷やした栄養剤をやっとの思いで飲み込んで、会社へ出かけた。

 横田課長が待っていましたとばかりに近づいて来た。

「どーでした、コンドーさん」

 ニヤニヤと嬉しそうである。

「……パンツが汚れるとマズイと思いまして、検査のズボン、穿いたまま帰りましたよ、家、近いんで。後ろにいた女の子のスカートが黄色くなっちゃって、悪いことしたなーと思って……」

「ええっ、ほんとうですか、コンドーさん」

 横田課長のこの微妙な実直さが好きである。

 昼休み。会議室のテーブルにそれぞれの社員が、弁当を広げる。冷蔵庫に冷やしておいた栄養剤を掲げ、これが昨夜からの私の食事です。朝も昼も夜もこれだけ。どうだ、凄いだろ、半ばヤケクソである。

 開封すると、「うわっ、くっせー」と誰もが顔を反らせた。それを私は二十秒ほどで飲み干して見せた。「うわー」という声が上がった。(どうだ、ざまあ見ろ)ダラダラと飲んでいると、最後まで飲みきれない。冷えたやつを、一気に飲むのがコツなのだ。かくして昼食は一瞬にして終わった。あとは比叡山の修行僧よろしく、ひたすら夕食までの空腹に耐えるのだ。

 家に帰って、腹減ったなと感じたとたん、またアレかと思い落胆する。そんな日々を繰り返した。普通の食事のありがたさが身に沁みた。とりわけ家族が作った料理を食べることのできる幸せは、替えがたいものだ。当たり前のような顔で、妻の弁当を食べている同僚が羨ましく思えた。

 実は、若造医師から入院を告げられたとき、私はかなり慌てた。

「先生、私、家族がいないんです。妹が札幌にいるんですが、母の介護をしてまして……身寄りがなくても入院できるんですか」

 正直、私は動転していた。独り身でも当然、入院は可能である。そんなことは当たり前だが、最も心配していたことを不意に言われ、慌てたのだ。

 一昨年(平成二十二年)の春、私は二十一年連れ添った妻と離婚した。十二年半の闘病生活をしていた妻が、家を出て行ったのだ。妻は重篤な精神疾患を背負っていた。そして昨年三月、母の介護をしていた妹がガンになり、私は会社に「願い」を出して北海道で勤務するようになっていた。大学生だったひとり娘は東京に残してきた。

 これまで家族の食事は、ずっと私が作ってきた。妻が発病し初めて入院したころ、しばらく我慢を重ねていた娘が、寝かせつけようとした布団の中で爆発した。

「ママに会いたいよ。ママのご飯が食べたいよ」

 布団をかぶっての号泣である。娘はまだ小学二年生だった。私は料理が苦手だった。悪戦苦闘して夕食を作る私を見ていた娘が、「チチのごはん、おいしいね」と言ってニコニコしながら食べていた。その我慢に限界が来たのだ。

 高校生になった娘の弁当は、もっぱら私が作っていた。とても大変な作業だった。

「無理しなくていいってば。売店もあるんだし……」

 自分で弁当を作ればいいものを、朝が苦手な娘がそんな言い訳をして、私から弁当を受け取っていた。経腸栄養剤を飲みながら、そんな場面を思い出していた。いずれ私もこの栄養剤の世話になる日が来るのだろうか、そんなことがふと頭を掠めた。

 かくして三日間をやり過ごした。あの大腸の穴は、どうなったのだろう。出血は、完全に止まっていたが、気がかりだった。

 栄養剤から解放された日の昼食は、休日だったこともあり、満を持してラーメンを食べに行った。近所の特製味噌ラーメンが無性に食べたくなったのだ。流動食からいきなりのラーメンはNGだろうが、欲望の暴走を抑えることができなかった。ラーメンは、汁まで全部飲んだ。ただ、あの穴からラーメンが漏れ出しはしまいかと不安がよぎった。

 一方、絶食治療のダイエット効果だが、期待どおりの結果は出なかった。経腸栄養剤の袋には、四〇〇キロカロリーとある。よく考えると、この栄養剤で痩せたら大変なことだ。どんどん痩せて骨と皮になって餓死したら、植物人間は存在しなくなる。

 だが、経腸栄養剤で訳もわからず生き長らえるより、美味いラーメンを食べて死んだ方がよほどマシだ。

 延命治療はゴメンである。

                平成二十五年二月  小 山 次 男