Coffee Break Essay


 「下血」


 (一)上部消化管内視鏡検査 ―― 胃カメラ


 それは突然の出来事だった。

 同僚の送別会の最中、不意に便意を催した。トイレを流した後、チラリと目にした便器が赤かったような気がした。それから一時間ほどして再びトイレへ。便器を覗いてゾッとした。そこには、見たこともないほどの夥しい血があった。

(うそだろう……、なぜだ……)

 見てはいけないものを目にしてしまった、そんな気がした。

 便器の鮮血を見て驚き、血相を変えて病院へいったというのは、よく聞く話である。それが自分のことになった。今までに痔を患ったことはない。ということは……最悪の想定が頭を掠める。平成二十四年九月二十八日のことである。

 そのまま席に戻り、素知らぬ顔で飲んでいたが、心中穏やかではない。周りの話も上の空だ。いきなり人生の「期限」を突きつけられた思いがした。

 父は五十一歳で死んでいる。酒もさほど飲まないのに、肝硬変になった。神経が細い父は、仕事に押し潰されたのだ。私も性質的には父に酷似している。やっぱり私も早いんだ、という思いが一瞬にして駆け抜けた。私は五十二歳だった。

 大量の下血を見たとき、真っ先に頭に浮かんだことがある。ご先祖様が私を召し上げようとしている、という考えだった。トイレを覗きながら、(えッ……もう、お役御免ということか……)と思ったのだ。

 私は途中二年間のブランクはあるものの、七年越しで祖母(母方)の家系を調べている。二人の史家の手厚い後ろ盾のもと、十六代、四百年にわたる事跡を『肥後藩参百石 米良家』と題して出版する作業をしていた。そのとき、すでに原稿の校正は第三校まで終えていた。大幅な内容の変更はもはやなく、あとは表記の不揃いの微調整の段階にあった。

「お前の仕事はここまでだ。よくやった。お役御免を申し渡す」、そんな言葉が降ってきたのだ。同時に、身の回りの整理をしなければと思った。自宅にある大量の本が気にかかった。これを残して死んだら、娘の性質からして、捨てるに捨てられなくて困るだろうと思ったのだ。トイレを出るまでのわずかな間に、そんなことを考えていた。

 翌日は土曜日で仕事は休みだったが、こんなときに限って続けて飲む予定が入っていた。東京から室蘭に来る同僚で、数年ぶりで一緒に飲むことになっていた。下血したといっても、特に体調が悪いわけではない。不安を払拭したいという思いも手伝って、大いに痛飲した。下血のことは話さなかった。

 下痢は初日だけで、翌日以降、タールのような黒い便に変わっていた。週明けの月曜日、会社を抜けて近所の総合病院へ出かけた。初めて行ったその病院の消化器内科の医師は、三十代そこそこの若造だった。大腸内視鏡検査を覚悟していたら、胃カメラから行うという。

「先生、もう何年も前のことですが、私は胃潰瘍の経験があります。今回は、胃からの出血ではないと思うのですが……」

 そう丁寧に向けると、

「まず、順番に上から診てみましょう」

 と諭された。それ以上の反論は心証を悪くするだけ、今後のことを考え素直に引き下がった。外来患者が立て込んでおり、別の先生でよかったら、これから胃カメラの検査が可能だという。(お前じゃない方がいい。願ってもないことだ)という思いを呑み込んで、

「ぜひ、そうしてください」

 とお願いした。

 「上部消化管内視鏡検査室」と書かれた部屋の前で待たされた。隣の部屋は「下部消化管内視鏡検査室」とある。上と下の違いだ。胃カメラはこれまでに何度か経験がある。人それぞれだが、私はバリューム検査より胃カメラの方が得意だった。

 ほどなく呼ばれ、苦い喉の麻酔薬を口に含まされ、胃の動きを止める注射を肩に打たれた。注射は苦手である。

「ちょっと痛いですよ」

 柔和なベテラン看護師のかもし出す雰囲気は、何にも変えがたい安心感がある。色白で少しポッチャリとした看護師のほうが、不思議と安心感も倍増する。チクリとした痛みもさほど苦にならなかった。この人なら大丈夫だと、誘われるままに寝台に横たわる。そこで身体を「く」の字に曲げ、マウスピースを噛まされた。俎上のコイならぬエビである。看護師がメモリのついた黒くて長い管を両手に持って私の前に立った。管は小指の付け根ほどの太さである。バリュームよりは得意とはいえ、何度経験しても嫌な瞬間である。

 いよいよだなと思っていると、管を持った看護師の後から若い女がひょっこり顔を出した。笑顔で、

「よろしくお願いします」

 という。えッ、やるのはこの娘か? どうなってるんだこの病院は、と思ったが、胃カメラの操作は看護師ではなく医師がやるもの。観念した。

 だがこの小娘、外見の割に腕は確かだった。管を挿入する際はさすがに苦しかったが、あとはすこぶる順調だった。「これから十二指腸を診ます」といわれ、これでもかというほど管を深く挿入された。私の口元に、あの長い管の根元があった。

「胃も十二指腸も食道も、特に異常はないようですね」

 と言うので、マウスピースをかまされ、涎と涙を流したまま(だから、胃カメラは大丈夫なんですよ)と言ったつもりが、

「アウ、ワウ、アー、ワウ、アウ、ワー」

 となるばかりで、こりゃダメだと思い、途中でやめた。

 その日の夜、「下血」に関してネットで調べてみた。食道や胃、十二指腸など、いわゆる上部消化管より出血すると、コールタールのような黒色便になる。便が黒くなるのは、血液が胃酸によって酸化されるためだとある。一方、小腸や大腸など下部消化管より出血した場合、赤い便(血便)になることが多い。その最たるものが、痔を原因とする直腸からの鮮血便だという。若造の見立ては間違いではなかった。

 私の場合はタールのような出血にもかかわらず、上部消化管に異常がないという。一体どういうことなのだ、と思った。あまり突っ込んで調べると、眠れなくなってしまう。途中で検索を切り上げ、余計なことを考えないように酒を飲んで寝た。 (つづく)

               平成二十四年十二月  小 山 次 男