Coffee Break Essay




 冬への覚悟


 北海道に来てから七度目の冬を迎える。

 いつもながらの短い夏は、惜しむ間もなく過ぎ去った。今年(平成二十九年)の八月、札幌は一度も三十度を超えなかった。真夏日がなかったのだ。そのかわり、七月に数日、暑い日があった。だからいいだろうというわけでもないだろうが、季節は容赦なく移ろい、九月が逝き、十月を迎えた。

 十月ともなると冬への臨戦態勢に入る。十月早々に大雪山旭岳は初冠雪を見る。札幌近郊の中山峠に雪が降り、手稲山に雪が積もる。札幌市内での初雪の平年値は十月二十八日だ。この一連の流れが札幌の冬の到来経路であり、テレビは冬タイヤ、暖房器具、除雪機のCMをウンザリするほど流し始める。

 私は北海道生まれだが、学生時代から北海道を離れている。三十二年の歳月は、私の身体から寒冷地仕様をきれいさっぱり消し去ってしまった。

 私の低温生活の再開は、二〇一一年三月一日付の室蘭への異動から始まった。羽田へ向うモノレールから、恨めしい気持ちで東京のビル群を眺めていた。今を盛りと咲き競う梅が、ビルの隙間のあちらこちらに見える。思わずイルカの「なごり雪」が口をつく。東京ともお別れだという気分が胸に満ちたところで、飛行機がふわりと滑走路を離れた。東京の風景がみるみる後ろに遠ざかっていった。

 室蘭は北海道の太平洋岸に面しており、降雪の少ない温暖な地域である。それでも寒さの衝撃は、想像以上だった。手袋をしていても寒さで手が痛んだ。正しくは、手ではなく指の骨が痛むのだ。久しく味わっていなかった寒さである。

 二年後の三月、今度は札幌へと異動になった。一三〇センチの積雪に度肝を抜かれた。室蘭の積雪はゼロだったのだ。三月なのに車道を走る車が見えなかった。

「だいじょうぶですよ、四月までにはこの雪、全部解けますから」

 と言われたが、その「だいじょうぶ」の意味がわからなかった。

 私は、二〇一一年に二度の冬を経験している。北海道の三月は冬であって、その年の十月には再び冬が来るのである。東京の感覚でいうと、十月下旬から四月上旬までの半年間が冬に相当する。だから今回が八度目の冬となる。

 北国の冬は、何もかもが閉ざされる。閉じた世界の中で身を固くして必死に耐える。その先にある春を信じながら。木々は全ての葉を落とし、風景から色が失せる。あらゆるものが、モノトーンの世界と化す。死んだふりをして春を待つのだ。

 雪の上に雪が積もる。さらにその上に雪が積もる。昨日雪が降って、今日もまた雪が降る。そして明日もまた降り続く。降り続く雪の中で昨日が今日に変わり、明日になるのだ。来る日もくる日も雪が降る。

 解けた雪が凍りつき、その上にさらに雪が積もり、また解けて凍りつく。そんなことを何度も繰り返し、ツルハシをも跳ね返す花崗岩のような地面が作られていく。滑る歩道に砂が撒かれる。その気休めの滑り止めに足をすくい取られる。どんなに気をつけて歩いても転ぶときは派手に転ぶ。年寄の姿が街から消える。

 寒いときは寒いと言えばいい。だが、寒い寒いとばかりも言っていられない。だから、歯を食いしばって寒さに耐える。連日氷点下の真冬日が続く。氷点下十度を下回るようになると、寒いという感覚が痛みに変わる。肌を露出して外を歩くことは出来ない。耳を出したまま十分も歩くと、耳が引きちぎられてなくなってしまう。

 吹雪の日は、何もかもが見えなくなる。それでも車を運転して会社に行かねばならない。北向きの信号機に雪が詰まり、信号の色が見えなくなる。かすかに見える対向車の動きで信号の色を推測する。

 朝、会社へ行く前に除雪する。雪の中から車を掘り起こすのだ。会社から帰ってきてまた除雪をする。寝る前にもう一度雪を掻く。そして目覚めて除雪する。一晩で四十センチも五十センチも雪が積もっても、会社へ行かねばならない。みな、平気な顔で会社に来て、何事もなかったように仕事をしている。雪のこと、寒さのことなど話題にも上らない。当たり前のことだから、いちいちそんなことに反応する気も起きないのだろう。最初のころ、そんな彼らを見て「お前らバカか」という思いが私の片隅にあった。だが、いつの間にか「バカなのはオレの方なのか」に変わっている。

 北国の暮らしは、厳しい。そんな環境にも、やがては順応するのだろうが、いまだに適応できていない。十月が近づくたび、必要以上に怯えている自分が情けない。ともすると、東京に逃げ帰りたい、そんな自分が顔を出す。だが、退路は断っている。お前の居場所はここなのだ、そう強く言い聞かせる。黙々と生きろ、五十七歳の自分に覚悟を迫る。

                平成二十九年十一月   小 山 次 男