Coffee Break Essay



 
 「二つの夏」


 私の生まれ故郷は、北海道の小さな漁村様似(さまに)町である。学生時代から北海道を離れたのだが、うち二十八年を東京で過ごした。そして平成二十三年三月から、ふたたび北海道での生活を始めている。

 東京の生活の中で、妻が重篤な精神疾患を得、九年間北海道に足を踏み入れていない期間があった。その後、妻とは離婚する。長期間北海道に接していなかったため、寒冷地仕様の免疫力が、私の中から跡形もなく消失してしまった。もともとの寒がり≠ニも相まって、寒さと風土の違いに混乱をきたすことになる。さらに、五十歳を過ぎた年齢が、環境への順応を強く阻(はば)んだ。

 六月が過ぎ、いよいよ七月になっても肌寒い。とりわけ朝夕は、何かを羽織っていなければ、鳥肌が立つ。十五度前後の気温の日々が続く。暑い日でも、日中の気温は二十五度程度だ。これが札幌の七月である。最初の二年間を室蘭で過ごしたのだが、室蘭はそれよりさらに四、五度低かった。釧路は室蘭よりさらに二、三度低い。これが北海道のスタンダードだ。

 東京からいきなり室蘭で生活を始め、覚悟はしていたが、戸惑った。いつまでたっても暑くならない。このままだと、夏が来ないうちに、またあの冬が来る。そんな危惧が強迫観念のように迫ってきた。

「ノリちゃん、いつになったら夏になるんだろう……」

 恐る恐る会社の同僚に向けると、

「なに言ってんですか、コンドーさん。夏じゃないですか、今」

 困った人だという顔で苦笑い。傍らにいたマルちゃんが、

「八月一日から十五日までが、真夏ですよ。それでおしまい!」

 王手をかけたようなドヤ顔で、将棋の駒をピシャリと置いた。

 確かにそのとおりで、八月になると三十度に近い日が増えた。二十八度の気温に、みな暑い暑いと汗を流している。だが、湿度がないため、ケタ違いに過ごしやすい。東京の夏とは比較にならないのだ。でも、ひとり涼しい顔をしているわけにもいかず、

「やっぱり、夏は暑いね」

 と心にもないことを言っていた。自宅では一度も扇風機を使わなかった。というか、扇風機を持っていなかった。家電量販店が配っていた団扇だけで夏を過ごした。団扇を使うのは、風呂上がりの火照った体を冷ますときだけだった。それは今も変わらない。

 八月も十五日を過ぎると、空気がガラリと入れ替わる。明らかに秋風が吹き、いつの間にかススキの穂が銀色に光っている。室蘭で過ごした二年間と、その後の札幌での生活の中で、北海道の夏がそういうものだと、改めて教えられた。北国の夏は、セミの命ほどに短い。

 一昨年(平成二十七年)八月のブログに、次のように記していた。

 八月十八日。今日は、寒い。完全に夏が終わった。現在、午後十時。気温は、一六・六度。冷たい雨も降っている。

 こうなるとシャワーじゃダメだ。温かい風呂に入リたくなり、蛇口をひねる。わが家の風呂は、湯船のお湯が適量になるとアラームが鳴る。

 そのアラームがなかなか鳴らない。しばらく時間が経って、そんなことに気づく。心配になって風呂場を覗きにいくと、湯船が空っぽだった。濛々(もうもう)と湯煙を揚げながら、お湯だけがジャージャーと流れ落ちていた。ウマの小便のような勢いで。栓をするのを忘れていたのだ。夏が終わった。

 東京。

 七月に入ると、すでに梅雨明けを心待ちにしている自分がいる。容赦ない陽射しに晒(さら)される日々が始まるが、降り続く雨と鉛色の空を眺める毎日に、もうウンザリなのだ。

 梅雨も末期になると、分厚い雲の下で蒸し焼きにされて暮らす。タールのようにネットリと肌にまとわりついてくる暑さ。汗で身体がナメクジのように滑(ぬめ)っている。それが四六時中続く。不快感は、すでに限界点だ。家中のあらゆるものが湿り気を帯び、古い壁紙は波を打ち始める。カビ菌の繁茂を必要以上に恐れるのだが、それでも気を抜いたところで、カビがしっかりと増殖している。

「ねえ、どうして手、放しちゃうの」

「だってさ、汗、気持ち悪くね?」

 手をつないでいた若い二人が、通りすがりにそんな会話を残していく。

 待望の梅雨明け。圧倒的な太陽が顔を出す。エアコン室外機の熱風と地を這う熱気が、渾然一体となってアスファルトを融かす。「猛暑」とか「酷暑」という言葉では言い尽くせない。すべてを焼き尽くす、それはまさに「炎暑」だ。連日三十五度を超す日々が、これでもかと続く。「暑い」と言っても暑さが紛れるわけではないが、つい口をついて出る。

 夜の闇の中、遠くで赤ん坊の泣く声が聞こえる。日付が変わっても、二十八度の熱気が漂っている。風がそよとも動かない。日中の三十七度は、何とかやり過ごせるが、夜中の二十八度は耐え難い。エアコンのタイマーが切れるたびに目が覚め、睡眠がズタズタに斬り裂かれていく。輾転反側(てんてんはんそく)、白む窓を恨めしく眺める。それでも梅雨の末期よりはマシだと思いながら。

 そんな中でも、若者は恋をする。セミにも負けないような熱狂を求め、海へと繰り出す。飲んで騒いで抱き合って、夏の勢いは止められない。かすかな風の揺らぎに、秋の気配を覚える。秋風は、日常への復帰を促し、遠い夏の日の記憶≠ニして封印されていく。夏とは、そういうものじゃないのか。そんな固定観念から、なかなか抜けきれずにいる。


                 平成二十九年一月  小 山 次 男