Coffee Break Essay




 ふるさとを訪ね歩いてみて



 去年(平成二十九年)の夏、エミと始めて様似(さまに)へ遊びに行った。その札幌へ戻る車の中でのこと。太平洋に沈む夕日に出くわし、エミが目を丸くした。夕日が太平洋に沈むなんて、ありえないというのだ。太陽は日本海に沈むものだと信じて疑わなかったという。ずいぶんと突拍子もないことを言い出すものだと、私は驚いてエミを見た。アポイ岳から昇った太陽は、やがて大きな夕日となり親子岩へと落ちていく、それが私のふるさと様似の常識だ。「様似はアポイで始まり、親子岩で一日が終わる」様似駅前民宿の女将、クミコさんがむかしからそう言っていた。

 エミは、北海道の日本海側、寿都(すっつ)で生まれた。歌棄(うたすつ)地区の美谷(びや)という小さな集落である。寿都は小樽から日本海に沿って函館方面に一〇〇キロほど南下したところに位置する。どこまで行っても一八〇度は海で、残りの一八〇度は山である。家の前で目隠しをしてスイカ割りでもやろうものなら、海に転落してしまいそうな狭隘(きょうあい)な土地が延々と続く。日本海で生まれ育ち、しかも札幌で暮らしていると、太平洋とは疎遠になる。札幌もまた日本海に顔を向けている街である。この日、エミは太平洋に沈む夕日を初めて見たのだ。

 そんな話をしながら車を走らせていると、正面に見えていた夕日が海に落ちた。そのとき、水平線の上に羊蹄山(ようていざん)が浮かび上がった。私は驚いて蒔絵(まきえ)さながらの金色のシルエットに目を凝らした。夕日が羊蹄山の向こうに沈んでいく。つまり日本海なわけだ。エミが「ほーらね」、と誇らしげに言った。

 様似からは羊蹄山は見えないが、静内を過ぎたあたりでは見ることができるのだ。今回、そのことを初めて知った。しかも、夕日が沈むほんの数分の間だけ、円錐形(えんすいけい)の羊蹄山が海上に浮かび上がるのだ。これに似た構図をどこかで見た記憶があった。江の島や葉山あたりからの富士山の眺めだったろうか。富士山ほどの勇壮さはないが、目の前で展開された光景は衝撃的な画であった。

 私がふるさと様似で生活した期間は、中学を卒業するまでの十五年間である。大学進学と共に北海道を離れ、以来三十二年間、京都・東京で過ごしてきた。東京で結婚してからも、元妻が長期間精神疾患を得ていたために、すっかり北海道とは疎遠になっていた。

 妻と別れ平成二十三年から再び北海道での生活を開始している。そんな中で、幼稚園からの幼なじみのさとみから紹介されたのがエミだった。平成二十八年秋のことで、離婚してから六年が経過していた。エミも連れ添いを亡くして四年が経っていた。

「いつまでもクヨクヨしてるんじゃない」

 そう言ってさとみは、五十四歳のエミに五十六歳の私を引き合わせたのである。今考えてみると、お互いに五十歳で連れ合いを失っている。同時期に人生の転機を迎えていたのだ。偶然は、後から見つけ出して、「運命」というキーワードでいくらでもこじつけることができるものだ。かくして中古品のリサイクルのような老いぼれカップルが誕生した。以来、私たちは無二のパートナーとして共に歩んでいる。

 昨年になって、お互いのふるさとを訪ねてみたいと思い、寿都と様似へ行ってみたのだ。札幌から寿都までは一四〇キロで、様似までは一九〇キロほど離れている。これが様似から寿都までとなると、三〇〇キロで、東京‐名古屋間の距離に近い。

 私が生まれたころの様似には、一万人を超える人がいた。寿都も似たようなものだろう。だが、過疎化の勢いは防ぎようもなく、現在の様似の人口は四三〇〇人で、寿都はちょうど三〇〇〇人である。甲子園球場のアルプススタンドに全町民が座っても、スカスカの数だ。生まれてくる赤ん坊より、死んでいく老人の方が多い。様似では年間の死亡者数が、出生数の二倍を超え三倍に達する年もある。しかも春がめぐって来るたびに、その数はガクンと減る。高校三年生が卒業と同時にふるさとを去るのだ。否応なく離れざるを得ない悲しい現実がある。様似では数年前に、その高校すらなくなった。私たちもまた、ふるさとを出てきた組である。

 久しぶりにふるさとに足を踏み入れると、それまで閉ざされていた記憶の扉が次々と開かれていく。その扉をたたくのは、忘却の彼方にあった風景である。それは潮騒の音であり、磯や昆布の香り、牧草の匂い、青く聳(そび)える遠い山々、河原を洗う清流である。あらゆるものが五感に沁みわたる。

 当時のままの古い家のたたずまい。むかしよく目にしていた大きな木。町ゆく人に見覚えのある顔を見つけたとき。そんなものを目にしたとき、せつないほどの懐かしい感情がこみ上げてくる。何十年もの間、記憶の回路の中だけで自己完結していたシナプスの先端が、現実の映像と重なり合う。

「えっ! この婆さん、まだ、生きてたんだ……」そんな小さな驚きの積み重ねが、ふるさとの記憶を更新していく。

 私たち二人は、生まれ育った場所や環境、過ごしてきた時間が違う。圧倒的に違う。だから趣味も、好みも、生き方も、何から何まで異なっている。そんな私たちが互いを育んだ土地を訪ねる。それは相手の懐深くにそっと入り込み、互いのバックグラウンドを覗き見ることである。

 二十代の若いカップルの出会いと、五十数年別々の生き方をしてきた者同士とでは、スタートラインの立ち位置が根本的に違う。そんな私たちが、ふるさとを訪ね歩いてみてわかったことがある。それまで、何もかもが違うと思っていた二人だが、実はそれほど違っていない、ということの発見であった。


                  平成三十年十二月  小 山 次 男