Coffee Break Essay



 『故郷の恩恵』




「きのう、山形さんの家に電気が来ました」

 出席をとり終わった担任の先生が、笑顔で報告した。大きな拍手とどよめきが起こった。昭和四十六年、私が、小学校六年のことである。東海道新幹線が開業してから七年、大阪万博の前年のことだった。

 私の故郷北海道の日高が、昭和五十年代であったか国定公園に指定されたとき、日本最後の最大の秘境といわれた。何をするにも不便な地域である。

 山形友子は、五年生の後半、山の分校が廃校になり、転入してきた。転入して来るやいなや、学年トップの成績になった。テレビのない生活の中での彼女の楽しみは、ラジオと写生と読書であったという。ただ、街なかでもラジオの電波の受信状態が悪く、テレビもNHKと民放二局しか映らなかった。山形の家では、電気が来たとはいえ、テレビの電波が届かなかったに違いない。

 参観日になると、山から出てきたといわんばかりのなりをした屈強な親爺が、教室の後ろに立っていた。山形の父親である。自然と対峙して生きている人間が持つ、懐の広そうな風格の父親であった。

 私が山形の住む地域に行ったのは、道路が整備され安心して車で行けるようになった、ごく最近のことである。それまでも道路はあったのだが、林道のようなもので、未熟な私の運転ではとても入って行けなかった。最後の開拓地である。現にその隣には「開拓」という地名もある。

 車を走らせていると、朽ちた廃屋が目立つ。現在そこで生活している家族は、ほんの数戸。この地で生きてゆくことの難しさを物語る。

 初めてそこに踏み込んだとき、ここは動物の棲む土地だなと思った。周囲を山で囲まれた狭隘な土地である。近くで牛を飼っている農家があるのだが、ヒグマによる被害に毎年頭を痛めていた。人里近い所だと、「熊出没注意」という看板を目にするが、ここではそういう看板すらない。

 危険地帯とはいえ、私はこの地に魅了された。車を止めれば、渓流の瀬音と鳥のさえずりが聞こえてくる。エゾハルゼミの声が四方に充満している。溢れるような緑に圧倒される。日高山系を源流とする無数の渓流は、イワナ、ヤマメ、ニジマス、アメマスの宝庫である。こんなところで暮らしていると、自分が人間であることすら忘れるかも知れない。人間本来の生活に立ち返る。部外者であるがゆえの、勝手な想像が広がる。

 

 山深く歩いていると、これ以上入り込んではいけない、と感じる場所がある。そんな森に踏み込むとき、畏怖を覚える。人間はそこでは控えめに、謙虚でなければならない。田舎で生まれ育った者が暗黙のうちに体得していることである。それを知らない都会の業者が、権利を楯に土足で踏み込む。いわゆる乱開発である。もっとも私の故郷は、そんな業者すら見向きもしない土地である。

 学生の頃、夏休みに土方のアルバイトをしたことがある。現場は山奥で砂防ダムを造る工事であった。バンで現場まで行くのだが、車には散弾銃とライフル銃が積んである。いつクマが出てもおかしくない場所であった。山菜採りに出かけるときもライフルを携行した。山に入り、安全装置がはずされるとにわかに緊張した。そんな場所には、山菜が豊富にあった。ミツバ、アサヅキ、ワラビ、フキ、セリ、秋には山ブドウ、コクワ、山栗、それにボリボリなどといった様々な種類のキノコが採れた。いいフキは、傘ほどの巨大なものである。茎を切るとジャーと水がほとばしる。小人がフキを持って出てくるコロボックル伝説は、この地域に伝わるものである。

 かつてこの地は、先住民族の楽天地であった。狩猟採集生活の彼らは、大自然の中で謙虚に暮らしていた。恵みをもたらす山川草木を神とし、常に恩恵に対する感謝の気持ちを忘れなかった。

 明治になって和人(シャモ)が入植してくる前の彼らは、食料には事欠かなかった。人が滅多に立ち入らない山深い沢や川に、ペンケ、パンケなどという名で彼らの地名が残っている。地元の僅かな人だけが知る地図にもない地名である。そこは、彼らが祖先から綿々として受け継ついできた狩猟場(イオル)だった。

 そんな彼らの土地が、ある日突然、国有地になり、大手製紙会社などの所有になってしまった。それまで彼らは彼らの掟(イレンカ)を厳格に守りながら、自分らの土地として何の疑いもなく暮らしていた。秋には溢れんばかりに遡上してくるシャケを捕った。シャケは彼らの主食である。

 それが日本人の法律により、突然、彼らのものではなくなった。抗うことができなかった。狩猟生活が出来なくなった彼らは、日本人の下で土木作業員や森林伐採に従事した。日本人への同化を余儀なくさながら、耐え難い差別のもとにおかれた。

 かつて彼らが大切に守ってきた狩猟区に、彼らの痕跡は影もない。手つかずの自然として残っている。占領民の末裔である私は、そこを我が物顔に故郷とし、その自然の恩恵に浴している。

 小さいころ、毎日のように道端で焼酎を飲んで管巻いているアイヌの老人がいた。日本語とアイヌ語をごちゃ混ぜにした言葉で、通りがかる人にまくし立てる。ロレツが回わっていないので、何を言っているのかいっそう理解できなかったが、言葉の端々に「シャモ」という音が聞き取れた。

 彼らにしてみれば、利得を追求する悪徳開発業者も我々も、ひとくくりのシャモに過ぎない。

 自然が満ち溢れるのどかな風景の中に、人間の悲しい歴史が潜んでいる。

 

                  平成十二年十一月   小 山 次 男

 追記

 平成十八年十月加筆