Coffee Break Essay


この作品は、アポイ岳ファンクラブ会報「アポイマイマイ」40(2005年2月発行)に掲載されております。


  『ふるさとの山』




 冬の楽しみがひとつある。

 東京に住んで二十二年。数年前に通勤電車の路線が高架となってから、冬の間だけ関東周辺の山々が見えるようになった。茨城県の筑波山、少し離れて群馬の榛名山や妙義山、さらに埼玉の秩父連山から神奈川の丹沢山系までぐるりと見渡せる。そして何より、高いビルの狭間にほんの一瞬、富士山が顔を出す。東京オリンピックの千円銀貨に刻印されていた、あの勇壮な富士である。それも数秒後には、またビルの中に消えてしまうのだが――。

 今、私は練馬区富士見台に住んでおり、最寄りの駅も富士見台駅だ。地名のとおり、昔は季節に関係なくどこからでも富士山が見えたのだろう。今では、空気が澄む冬季間、しかもよく晴れ渡った日しかその姿を見ることができない。

 だが私は、毎朝の通勤電車の中から富士を見ながら、実は別のものを見ている。富士山がふるさとの山に重なっているのだ。

 私は中学を卒業すると同時に、ふるさとを離れた。それまでは、朝起きると窓の外にアポイ岳があり、学校へ向かう自転車の先にもアポイがあった。

 昭和四十五年に統合されるまでの様似小学校の校歌は「アポイヌプリのお花畑♪……」であり、中学校の校歌の歌い出しも「雲光るアポイ♪……」である。その日の天候の成り行きは、アポイにかかる雲で窺っていた。群青色の山裾の片方を太平洋に浸し、もう片方を日高山脈に結ぶ。まるで町を見下ろすかのような山容で存在している。アポイは名実共に町の中心である。

 山が好きだった父は、よく私たち家族をアポイへ連れて行った。幼い頃は、もっぱらアポイ山麓を流れるポンサヌシベツ川で遊んだ。私が小学生になってしばらくすると、五合目にある山小屋まで登るようになった。父は私との登山が夢だった、後に母がもらしたことがある。もの心ついたころには、テントはもちろん、寝袋から炊飯道具まで登山用具一式が揃っていた。

 だが父とは、とうとう一度も山頂を踏むことはなかった。あるとき五合目の山小屋で、

「ねえ、お父さん、頂上まで行こうよ」と父を促した。よし行ってみるか、と腰を上げたのだが、「もうだめだ……疲れた」と、結局引き返した。それが父と登った最後のアポイである。今思えば、そのころから父の体調は思わしくなかった。

 中学生になると、友達と連れ立ってアポイに出かけた。ひと夏に三回、四回と足げく山頂を目指した。勢い余って隣の吉田山にいたこともある。山頂を踏破するという醍醐味も去ることながら、岩場にひっそりと咲く時々の高山植物に魅了されていた。

 大学に入ってからは友達を誘って登山をした。父はそのたびに「おぅ、気をつけていって来い」と声をかけた。父はもう自分が登ることをすっかり諦めていた。私が山から戻ると、馬の背や山頂の様子を聞きたがった。若いころ自分が見た高山植物の群落の様子を、熱心に語ることもあった。

 私が大学を卒業し、就職するのを見届けるように、父は逝った。

 父の荼毘(だび)を待つ間、私は小高い山の上にある焼き場の外に佇んでいた。目の前には一段と大きなアポイがあった。山頂付近には、まだいく筋もの雪渓がある。穏やかな海風に煽られた父の煙が、アポイの方角に向かって長くたなびいていた。ああ、父が昇って行くのだなと思った。

 様似を離れ三十年。札幌、京都、東京と居所を変えながら、学生から社会人となり、結婚して子供が生まれ、私の生活も刻々と変化している。だが、ふるさとへの思いは常に変わらずにある。アポイだけは、いつまでも変わらぬアポイであって欲しい、という祈りにも似た思いである。

 今日もまた、電車の中から富士を探す。満員電車のドアに顔を押し付けられながら、私の目が追っているのは、遠いふるさとの光景であり、父の姿なのかも知れない。


                    平成十七年二月立春   小 山 次 男