Coffee Break Essay

 
「ふるさとを処分する」

  一両編成のディーゼルカーが、ガタンゴトーン、ガタンゴトーンと昔ながらの単調な響きで、牧場の中を走る。サラブレッドの群れが、あちらこちらでゆったりと草を食(は)んでいる。苫小牧発様似(さまに)行きのJR日高線は、山と海の間を縫いながら、ひたすら牧場の中を走る行程である。

 平成二十一年七月、私は特別な思いを胸に、ふるさと様似を訪ねた。様似は、北海道の太平洋岸に面し、襟裳(えりも)岬にほど近い人口五千人を僅(わず)かに超える小さな漁村である。この一帯は、日高昆布とサラブレッドの一大生産地となっている。

 その前年の八月、実家でひとり暮らす七十三歳の母が脳梗塞に倒れた。二カ月半の入院の後、札幌の妹のもとで加療生活を送っていたが、三月に室内で転倒し、大腿骨を骨折した。暖かくなったら実家に戻るつもりでいた母は、やむなくひとり暮らしを諦めた。ふるさとを離れて生活することは、母にとって初めてのことである。

 様似は、札幌からでも車で四時間半を要する僻地。東京からだと最短でも九時間かかる。いつまでも実家を空き家のままにしておくわけにはいかない。

「お前にぜんぶまがせるから……すまないね」

 と母に言われた私は、遠戚を通じてやっとの思いで買い手を見つけた。六十三坪、築二十九年。役場や駅までは歩いて五分弱という地の利である。二階の窓からは海が一望できる。私の住んでいる練馬だと八千万、いや一億円でも買い手があるだろう。田舎のたった一人の司法書士に相談すると、

「とにかく不景気でね……もう何年も売買がないのさ。相場がないんだよね。お母さん、あんなに元気な人だったのに、残念だなぁ」

 この司法書士は、母の同級生である。結局、実家は一五〇万円で売った。妥当な額だという。数週間前、地元にほど近い町で、廃校になった四つの小学校がネットオークションにかけられ、東京でも大きな話題となった。一校あたり、グランドつきの最低落札価格が三千万円だった。

 母に電話で報告をすると、「ええッ!……」といったきり黙ってしまった。私が大学に入った年、両親が一大決心をして建てた家である。思い入れはひとしおだったはずである。田舎のサラリーマン夫婦で築いたその苦労の結晶が、僅か一五〇万円と評価され、納得できなかったのだ。

「そうかい……仕方ないね。だったら、それでいい」

 ポツリと言った。

 母は脳梗塞で倒れて以来、一度も実家には帰っていなかった。往復九時間の道のりに、体力的な自信がなかった。

「かあさん、何か持ってきて欲しいものはないか」

「……いやー、もうなーんにもいらない」

 預金通帳や印鑑、父の位牌など大切なものは事前に妹が引き取っていた。が、母は着の身着のままで札幌へ搬送されたので、洋服など身の回り品一切を実家に残したままだった。なにもいらないはずはない。母は子供たちの手を煩(わずら)わせたくない、と思っているのだ。度重なる入院で気力が衰えたことも原因している。私はアルバムなど、最低限のものだけを確保して、あとは近所に住む伯父夫婦に処分を頼む段取りでいた。

 始発電車で練馬の自宅を出て、昼過ぎに様似に到着した。様似で汽車を降りたのは、私を含め五人だけである。もう何年も前から無人駅となってしまったこの駅だが、思えば若い日々、進学、就職と、私の人生の節目を見守ってくれた駅である。

 中学の卒業式を終え、金の卵として愛知県の紡績工場に旅立つ友達をクラスの仲間全員で見送った。札幌の高校へ進学する私を、大勢の同級生が見送りに来てくれた。走り出した汽車の窓から上半身を乗り出して大きく手を振った。それに応える仲間たちの後ろで、俯(うつむ)いている女の子の姿が目に入った。

「好きだったんだよ、あのころは」

 二十年ぶりの同窓会で再会した彼女に、思い切り肩を叩かれ、笑い飛ばされた。三人の子の母だという。

 肝硬変になった父が、年を越せないといわれながら、なんとか持ち堪えていた。私は四月の就職を迎えようとしていた。

「お前を東京にやるのは、失敗だった……」

 病室のベッドに横たわる父に、

「ゴールデンウィークには帰ってくるから」

 といって旅立った駅である。東京で暮らして二十六年、始発駅だった様似が、いつのころからか私の中では終着駅に変わっていた。

 駅前に広がる空を眺めながら、大きく深呼吸をした。かすかな潮の香りが鼻腔をつく。帰って来た、という思いが胸に満ちた。同時に、切なさが胸を圧(お)す。ふるさとを処分しに来たのだ、という思いが胸に溢れた。

 実家で伯父夫婦と合流した。玄関を開けると、ひんやりとした空気が室内に澱んでいた。位牌のない父の仏壇に手を合わせ、一服する間もなく、アルバム探しを始める。押入れを開けると、もらい物のタオルや石鹸、食器類が、ぎっしりと詰まっている。ポケットティッシュは、大きなダンボール箱から溢れ出ていた。昭和十年生まれの母は、何も捨てられない世代なのだ。その量は想像を超えていた。

 やっとの思いで押入れの奥から古いアルバムを見つけ出した。そのひとつ、真紅のベルベット地のアルバムをめくると、結婚式の写真が目に入った。若き日の父と母が、神妙な顔で神主のお祓いを受けている。結婚式は、母の実家である風呂屋の二階で行われた。私が生れた場所でもある。

 傍らにいた母の兄である伯父に、

「おじさん、ほら、こんなのが出てきたよ」

 と指し示すと、「おお……」といいながら、懐かしげに見入っている。この伯父も母が脳梗塞で倒れた三カ月後に、同じく脳梗塞で札幌に運ばれた。

 アルバムには、私や妹の赤ん坊のころからの夥しい写真があった。それらの傍らで、若き日の父や母が笑っている。写真を目の当たりにすると、改めて呼び覚まされる記憶がある。ここにもうひとつの家族があったのだなと思った。

「ほら、国道がまだ舗装されてないよ」

「いやー、懐かしいわね。これ、おとうさんでしょ」

 伯母が指差す写真には、二十代の伯父が三輪自動車の運転席で笑っている。いつの間にか三人の頭がアルバムを取り囲んでいた。

「ツキちゃん、こんなに若かったんだね……」

「これは?」

「シュッちゃんじゃないの」

 五十年も前の記憶が蘇り、ページをめくるたびにそのときの匂いや感触までが呼び覚まされる。すっかり時間が止まってしまった。

 だが、現実は容赦なく過ぎてゆく。懐かしさを振り切り、私は納戸の奥から私の宝物箱を見つけ出した。子供のころ私が集めていた化石や土器、ヤジリ、古銭などが詰まったダンボール箱である。この宝物は、そっくりそのまま伯父の孫に引き渡すことに決めていた。箱の中には、祖父が集めていた明治時代の切手帳もあった。幼いころ、この伯父からもらったものである。

 夕暮れに急き立てられ、荷物の整理もそこそこに、私は親類の家を訪ね歩いた。冷たい雨が降り出し、七月中旬というのにどこの家のストーブにも火が入っていた。

「ケンかい。いやー、よく来てくれたね」

 何年かぶりの突然の訪問にもかかわらず、みんな温かく迎え入れてくれた。その日は伯父の家に泊まり、翌日も可能な限りの人々を訪ね、その足で札幌へ向かった。ふるさとを懐かしむ時間は、残されていなかった。

「やー、すまなかったね、大変だったでしょう」

 神妙な表情で母が頭を下げた。

「アルバムだけは、ちゃんと見つけてきたから。今度、美香がもってくるよ」

 仕事の都合で私と一緒に行けなかった妹が、翌週、それを回収してくることになっていた。私は二時間ほど母のもとで過ごし、その日の最終便で東京へ戻った。

 後日、妹が写真を持ち帰ると、母は古いアルバムを抱きかかえるようにして自室に消えた。扉の向こうから子供のような嗚咽が、しばらく続いていたという。その話しを聞いたとき、「もう、なーんにもいらない」と言い放った母の潔い言葉が胸に迫り、涙が溢れた。

 

              平成二十一年十一月 立冬  小 山 次 男