Coffee Break Essay



   『奪還十万円』




 今年(平成十六年)の正月、私は財布を落とした。

 伯母の通夜の帰り道、JR大宮駅でのこと。その財布には、免許証はもとより、ありとあらゆるカード類がそっくり入っていた。もちろん、お金も。

 あろうことか、その時に限って大金を持っていた。その額、十万。懸賞エッセイに応募し、昨年五月にもらったものだった。

 伯母の死は妻にとっても大きな痛手。幼い頃から、母親のように慕っていた伯母であった。それゆえ、いつ何時、妻の具合が悪くなるとも限らない。そんなことを心配して賞金を潜めていたのだ。

 生まれて初めて懸賞エッセイに応募し、生まれて初めて賞をもらった。そして、生まれて初めて財布を落とした。伯母の死とも相俟(あいま)って、私はすっかりしょげ返った。本来ならここで奮起し、別の懸賞エッセイに応募すべきところ。だが、とてもそんな気分にはなれない。第一、そんなにことが上手く運ぶわけもない。

 それから一月ほど。何とか気を取り直し、以前書いたエッセイを眺めつつ、公募雑誌を捲(めく)る日々。そこで長野県のK市が募集しているエッセイが目に留まった。三月の締め切りを横目に約二ヶ月かけて推敲を重ね、これ以上直しようがないというところまで追い込め、納得して投函。

 そしてこの七月中旬。最終選考に残ったという通知が舞い込んだ。心臓が高鳴った。そこそこは行くだろう、とは予想していた。だが、正直、最終選考に残るとは考えていなかったのだ。そこで、慌てて応募原稿を読み返してみた。これじゃ、だめだな、というのが率直な感想だった。投稿した時には、これが精一杯だと思って出したのだが、四ヶ月を経て読み返すと、直す要素が浮かんでくる。第一、内容が説明的過ぎる。バーンとしたパンチに欠ける。再び、私はガッカリしたのである。

 この原稿を投稿してからの四ヶ月間、私はもうひとつの格闘をしていた。所属している同人誌の秋季号に掲載する原稿に苦慮していたのだ。同人誌に原稿が掲載されると、他の公募への応募資格を失う。だが、その見返りではないが、毎年文藝春秋から刊行される『ベストエッセイ集』への応募資格を得る。それゆえ、おろそかにはできない。実は、今年の『04年版ベストエッセイ集』への好機を、私の不注意から逸していた。さる方から、入選間違いなしと太鼓判を押されていたのだ。これは、私にとって悔やんでも悔やみ切れない痛恨事であった。

 その痛手からの立ち直る間もなく、かねてから決めていた掲載予定原稿が、已むごとなき事情で掲載できないことになった。そこで背水の陣で代替作を書き上げ、ホッと胸を撫で下ろしていた矢先、同人誌のスタッフからメールが届いた。私が以前に書いた三十五枚の作品を手直しして掲載すべき、とのこと。

 三十五枚を五枚に仕立て直すなど、私の力量では到底できない。無理だと弱音を吐く私に対し、あと一ヶ月ある。十枚までなら掲載するという。そこでカレンダーを眺めながら、再奮起。八枚にして出したら、細かなコメントが来た。それに従い、さらなる手直しを加え、結局、十枚に纏(まと)めたところで、K市からの最終選考の通知が来たのである。

 この二転三転の格闘により、大袈裟に言うならば、私はひと皮剥けていた。だから、公募原稿のアラが見えたのだ。だが、今となっては後の祭り。再度書き直して別の公募に出すか、来年の春の同人誌に掲載しようと思っていた。

 そして迎えた最終選考日。ダメだと観念しながらも、変な期待感が巻き起こる。せっかくなら、佳作くらいには入選したい。だが、二万円をもらうためにわざわざ長野県まで新幹線で行くのもどうか。どうせなら入賞したい。入賞するなら優秀賞ではなく、最優秀がいい、とあらぬ空想に取りつかれ出した。

 夕方、予定より一時間以上も早く、携帯が鳴った。案内文章には、入選者にのみ連絡がある、とあった。主催者からの電話だった。体中の血液が沸騰し、耳からは水蒸気を発した。が、その内容は入選した場合の著作権などの確認であった。受賞者への正式発表は、マスコミ発表後、文書で通知するとのこと。大きく肩透かしを食らってしまった。

 帰宅後、午後八時半、また電話。

「――最優秀賞は逃しましたが、優秀賞に選ばれました……」

 予期せぬ電話に、再び心臓が高鳴った。どうやら、最初の電話の段階で、決まっていたようなふし。……受賞者には、まず電話でご一報を、と先生がたからお叱りを受けました、と担当者。

 オリンピック女子水泳で銀メダルを手に「くやしーい。金がよかったー!」と言った女の子ではないが、強欲な私は、受話器を置いて「ああ、一等賞がよかったな」と思ったのである。(ちなみに金がよかったと言った女の子、私の近所に住んでいるらしく、商店街でしばしば見かける)

 これで財布が買えるじゃない、と妻。財布を持っているから落とすンだ、と依怙地(いこじ)になった私は、正月以来、お金を封筒に入れて持ち歩いていた。

 ともあれ、賞に入ったということは、大きな自信に繋がった。だが、何よりの収穫は、僅か半年で十万円を奪還したことであった。

                  平成十六年八月   小 山 次 男