Coffee Break Essay


 
 「大震災がやってくる」


 何が怖いといって、地震ほど恐ろしいものはない。それは火山列島の上で暮らす我々日本人が、本当は一番よく知っているはずのことである。「地震、雷、火事……」の故事の冒頭に「地震」が置かれていることが、それを端的に現している。

 地震の怖さをまざまざと見せつけられたのが、平成二十三年の東日本大震災である。これまでに何度も大地震と大津波に襲われてきた土地で、再び地震が起こった。定石どおり、「天災は忘れたころ」にやってきたのだ。それが千年に一度という、想定をはるかに超えた規模で。

 その傷口はあまりに深く、未だ癒えることなく痛々しさをさらけ出している。傷口に塩を塗るではないが、津波による塩害が広大な田畑を不毛の地に変えてしまった。土壌改良の努力は、今もなお懸命に続けられている。気の遠くなるほど厳しく、過酷な作業である。

 加えて、大きく開いた傷口からは、膿(う)みならぬ、高濃度の放射性物質を含んだ汚染水が溢れ続けている。それが日本のみならず、世界中の人々を不安に陥れている。最大の被害者は、ふるさとを追われた何十万という人々と、その近辺で暮らす農業や漁業といった、第一次産業に従事している人々である。全く汚染の及ばない範囲の人たちまでが、「風評被害」に喘(あえ)いでいる。塗炭(とたん)の苦しみが、人々の上にずっしりとのしかかる。先の見えない、果てのない闘いである。

 私は昭和四十三年の十勝沖地震(M七・九)と昭和五十七年の浦河沖地震(M七・一)を経験している。前者は小学校三年生の教室で、後者は大学三回生の春休みで帰省していたときのことだった。それは天地がひっくり返るほどの大きな揺れだった。そのとき、生まれて初めて、命の危険を意識した。大正十二年の関東大震災は、M(マグニチュード)七・九、平成七年の阪神・淡路大震災がM七・三であることからも、その規模の大きさが想像できるだろう。ちなみに、今回の東日本大震災は、M九・〇である。阪神・淡路大震災の一四五〇倍のエネルギーだという。凄まじ過ぎてピンとこない。

 ただ、私が経験した地震は、地震頻発地帯の北海道の田舎で起こったものだった。それゆえ、規模の大きさの割に、被害は極めて軽微だった。津波もさほどひどくはなかった。だが、この同じ地震が大都会で起こっていたら、間違いなく「大震災」になっていたはずである。そんな経験からか、私は地震には人一倍過敏な面をもっている。

 平成二十三年三月、それまで二十八年暮した東京を離れ、北海道へ戻った。転勤である。転勤が決まったとき、様々な思いが交錯する中、「これで東京から脱出できる」という思いも、微量ながら持ち合わせていた。東京で巨大地震に遭遇しないで済んだ、という安堵感である。だが、娘をひとり東京に残してきている。私の会社は、東京に本社がある。手放しで喜ぶことはできない。私は脱出できたが、娘と会社を同時に失うという構図が思い浮かんだ。その途端、どす黒い思いが、タールのようにベッタリと私の胸に貼り付いた。

 私の転勤先は、北海道の室蘭市だった。室蘭はふるさと様似(さまに)にほど近く、太平洋に面している。北海道の太平洋沖は、日本有数の地震の巣である。室蘭に来て早々に購入したのが、ラジオ付き懐中電灯だった。ラジオは貴重な情報源である。この地域で経験した思いが、購入を促した。だが、非常食を蓄えるほど、神経質ではなかった。

 室蘭で生活をはじめて十一日目、大きな揺れに襲われた。東日本大震災である。あまりにでき過ぎたタイミングに、愕然(がくぜん)とした。その夜、ラジオ付き懐中電灯を手に、漁港に隣接する会社の事務所を見にいった。幸い室蘭に押し寄せた津波は一メートルほどで、被害は軽微ですんだ。

 東京の娘も、無事に難を逃れていた。数日前まで私と一緒に仕事をしていた東京の同僚たちは、全員帰宅困難者となり、会社で一夜を明かしていた。その中に私がいないのが、不思議でならなかった。

 この地震、東京の人々にとっては、ある意味前哨戦(ぜんしょうせん)に過ぎない。言葉は悪いのだが、自分たちの本番に備えた予行演習でしかない。テレビに映し出される東京の帰宅困難者の映像を目にしながら、そんな不謹慎な考えが頭をよぎっていた。

 近年、テレビ・新聞などで、切迫する大震災に対する警鐘ともとれる番組が、かなりの頻度で放送されている。私の杞憂(きゆう)がにわかに色を帯び、今や確固とした確信に変わっている。

 東日本大震災から間もなく三年になる。時間の経過は、ご他聞にもれず「風化」の兆しを見せている。人々はいとも簡単に、「自然の力の恐ろしさ」を忘れてしまう。強い陽射しを受けたポスターが、あっという間に色褪せて、その瑞々しい輝きを失うように。

 それは悪いことではない。強烈な「負」の出来事を緩やかに忘れる、それは我々の脳の極めて自然(=正常)な働きである。生々しい凄惨な光景を、いつまでも鮮明に記憶していたなら、逆に精神が崩壊してしまう。時間とともに癒される、という「記憶の薄れ」は、自然に備わった人間の防衛本能である。だが、これこそが次の災いをもたらす火種となる。悲しいかな我々人間は、同じ失敗を繰り返してしまうのだ。

 昨年(平成二十五年)の九月、東京が二〇二〇年の夏季五輪開催地になった。最後の最後まで予断を許さなかった開催地の決定ゆえ、発表の瞬間、人々の喜びは大爆発した。現地の五輪招致団の喜びがそのまま増幅器となり、日本全体がリアルタイムで歓喜のうねりに包まれた。

 東京五輪開催を危ぶませた問題はいくつかあったようだが、最後にクローズアップされたのが原発の汚染水問題だった。だが、これら一連の報道を見ながら、私には腑に落ちない思いがあった。五輪招致の最大のネックは、「地震」ではないのかと密かに思っていたからだ。開催地を決める国際オリンピック委員会のメンバーが、どうしてそんな重要なことに気づかないのだろう。どうかこのまま気づかず、開催地決定の投票日を迎えて欲しいと願った。そして、そのとおりになった。

 駿河湾を震源とする東海沖地震は、もう数十年も前からいわれていることである。だが、東日本大震災以降、にわかにクローズアップされているのが、南海トラフ巨大地震である。この地震は、東海・東南海・南海沖での地震が次々と起こる「連動型地震」で、過去に繰り返し発生しているという。最新の研究で明らかになってきた。

 さらにもうひとつ。前回、九十年前の関東大震災の震源は、東京湾(荒川河口)である。その延長線上に、断層の空白地帯が外房へと延びているとうのだ。次回の関東大震災の震源域と目されている場所である。私の杞憂は、これらの地震なのである。

 いずれの地震も必ず来る。一〇〇パーセント、絶対に間違いなく襲って来るのだ。それがいつ来るかは、誰にもわからない。だが、いつ来てもおかしくない状況にある。南海トラフ巨大地震では、今後三十年内に八七パーセントの確率で発生するという説もある。つまり、「間もなく」なのである。

 オリンピックは七年後に開催される。その前に地震が来たら、オリンピックどころではなくなる。関西から関東に至る広範囲が壊滅する。大都市だけでも、神戸、京都、大阪、名古屋、そして東京を含めた横浜、川崎、さいたま、千葉といった首都圏が甚大な被害を蒙(こうむ)る。首都圏だけで三四〇〇万人とも三七〇〇万人ともいわれる人々が暮している。つまり、日本がダメになるのだ。

 もはや防災グッズを買いそろえるとか、防災訓練をする、といったなまやさしい次元の話ではない。地震は、どうにも抗することのできない自然の力である。避けることは不可能である。我々にできることは、「覚悟を決める」ことしかないのだ。政府も「正しく恐れろ」といっている。だが、そんな政府が、原発を推進する態度を表明し、諸外国に対し原発の売込みを推し進めている。そこが理解できない。なぜ、そんな単純明快なことがわからないのか。私なんぞが考えるほど、この問題は「単純」ではないのか。

 私には、恐怖心を煽(あお)ろうとか、思い浮かんだ受け売りのような知識をひけらかそう、などといった気持ちは毛頭ない。ましてや反政府勢力でもない。

 東日本大震災が起こって、連日の映像を見ながら、テレビの前で幾度涙を拭(ぬぐ)ったことか。毎日、毎日、涙を流していた。それは今も変わらない。もう、あんな哀しいことは起こってほしくない。東北の純朴な心をもつ人たちの健気な姿、懸命な姿が、見る者の心を打つ。

 私はただただ恐ろしく、怖いのだ。あの震災をはるかに凌ぐ規模の大地震が、間もなくやってくる。それが間違いなく大都市を直撃する。地獄絵は、阪神・淡路大震災でも見せつけられたが、次回の大地震は、それをはるかに凌ぐ。

 地震は恐ろしい。津波がすべてをもってゆく。火災が何もかもを焼き尽くす。だが、それらは一過性のこと。最も怖いのが、原子力発電所の被害である。そのことを、今回改めて思い知らされた。原発はもう止める方向でいった方がいい。このあやまちだけは、繰り返してはいけない。


                      平成二十六年一月  小 山 次 男